2011年 05月 17日
スピリチュアルケア誌51号 2011年4月 |
挫折は人生を変える可能
福島 → 災禍の島 → 生きる目標:新福島
ウァルデマール・キッペス
わたしたちの社会は「安全第一」「安定」を生きる基盤として強調し、日常生活をしている。だが昨年から、宮崎県の口蹄疫と鳥のインフルエンザ に続いて新燃岳の爆発があった。今は東日本大震災である。それらは自然災害と考えられる。それに対して、福島第一原発の爆発による安全の崩壊、不安定な状況は少なくともある程度人間による巨大な災いと言える。それらの悲惨な出来事に「どうして」であろうかとわたしは考え苦しんでいる。だがわたしには正解がない。
石原慎太郎・東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。 わたしは「罰」のようなことはまったく考えなかったので石原知事のことばに驚いた。知事ご自身が被害を受けて、それを「罰」として解釈するのは自由だが、他者に対してのこういう判断はふさわしくないと思う。東北地方太平洋沖地震や福島第一原発の爆発によって住まい、仕事場、市町村の壊滅などだけではなく、身内やかけがえのない両親や友などを突然に失った大勢の人たちに向かって裁くのは好ましくない。わたしには親や祖母を捜している9歳の男の子の姿が特に印象に残っている。
私事であるが、わたしは第2次世界大戦で人間による災害を受けた。8人の家族は住まいを失い、避難生活を約3年間体験した。これはわたしたちドイツ人の所為であり、責任としてわたしはその災害を受け取った。だが母は避難した所で「わたしたちはこういう(罰)を受けるはずはなかった」と無事であった一人の人に言われた。そのときショックを受けた母の様子は今でも印象に残っている。発言者にとってわたしの家族は悪い人間であったから天罰を受けたのは当然なのであった。ちなみに発言者はわたしたちと同じキリスト教徒であった。
災害や不幸に関しては自分なりに深く正直に熟考することは大切である。必要に応じてそれを他者に提供し、議論し合う事も有意義なときがある。だが自分の解釈はあくまでも仮説であり、全ての人や状況に当てはまる教義ではないことを意識するとよい。個人的な一般論は他者の心を傷つけてしまうことも例外ではないからである。
安全や安定のない状況の中に強制的に置かれている人たちにとって生きること、生き続けるための力は多様であろう。基本的に要求される要素は希望、および今の状況の中でできることを把握し、それに集中することではないだろうか。心配や不安を持つことは当然である。だが、既に制限されている内面的な能力を余計な心配事のために使うことは逆効果を招く恐れがある。
災いという、いわば試練に関しては「なぜ」よりも「何のために」について考えるとよい。「なぜ=原因」は変えられない過去にあり、「何のために」という問いかけは将来を指す、いわば開かれたプラスの面を与えることも少なくない。上述した私事だが、爆弾によって家の中にあった自分のものを失った(奪われた)が、残っていたのは故障した自転車で、家から離れた倉庫に置いてあった。この自転車はわたしの唯一の“財産”であった。ところがその自転車もある日盗まれ、雪まじりの雨が降る中、避難所までの18kmほどの距離を歩くことになった。そのとき思わず一つの賛美歌が胸の中から湧いてきた。その内容は「人間よ、世俗から離れ」で、わたしのその後の人生の舵になった。現在、日本にいるのはそのとき生じた一つの結果である。
他者の不幸から目をそらすことは適切ではない。同時に不幸ばかりじっとみるのも健全ではない。今回の被害をわたしはまったく受けていないが、地震の被害から生じた教訓について考えている。
・ まず、存在したり持っていたりすることが当たり前と思っていたことが実は当たり前でないことを新たに意識している。住まい、洋服、飲食料、電気、仕事ための道具、電話、携帯、それに忘れがちである命と健康や同僚。
・ 「なぜ自分ではないのか」を再認識すること。自分は災害を受けた人となぜ違っているのであろうか。
・ 今のできごとから学び、災害への知識を得ようとすること。
・ 内面性への集中。(例:好奇心からニュースを聞いたり見たりするのではなく、自分の心・魂、自分の内面性(スピリット)を育成するために利用すること。)
・ わけのわからないこと、変えられないことを話題にしないこと。
・ 無理矢理に苦しそうな顔をしないこと。
・ 連帯感。災害に遭っている人々に対して関心を持ち、自分ができることを工夫すること。それによって昨年から言われている「無縁社会」や「孤族の国」からの一つの解放が生じてくる。以前被害を受けた町(例:神戸)や国(例:インドネシア)からの恩返しの募金活動や援助隊(例:ニュージーランド)のこと。
・ 原材料を大切にし、それを節約すること。(例:便利さではなく可能である限り自動車より自転車でいくこともできることのひとつである。)
・ 混乱状況の中での電話などの通信は被災している人たちの状況を考え、単なる友人関係であれば省くことなど。
・ 祈ること。「命の源」との関係を強めること。(「学び」参照 12頁) 今回の大災害では被災した人からもしなかった人からも「祈ってください」と何度か頼まれたこと、そして海外からの祈りへのリクエストも印象的だった。
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by pastoralcare-jp
| 2011-05-17 11:01
| 記事