人間であること スピリチュアルケア誌80号 2018年11月 |
人間であること
自分自身であること 対 資格者
現代社会は資格者の社会になりつつある。自分自身でありたい、なりたいなら、自分の考えや価値観などが生き方の基になるのは不可欠条件になる。そのために忍耐、信念や勇気が不可欠であり、日々の生き方の反省も当然の課程になる。
日々の生き方は公の流行に従っているか、それとも自分自身の内なる声に基付いているかを定期的に反省する行為は厳しい不可欠条件になるのである。
私事だが夏、二ヶ月間、ふる里のドイツに行った。食べ物を始め、祈る内容と方法、社会の行動、理想と考えなどにおいて受け入れてもらうための機嫌取りの「同意をしないこと」は闘いであった。周囲を尊敬するが、周囲に従って、自分自身の価値観や習慣(“宝物”)を後回しにしないように努力してきた。しかし、それを完全にできなくて、周囲から影響を受けたのは悔いが残っている。
スピリチュアルセルフケア
「ガンの治療」の担当になる為には「ガン」を体験したこと/していることは条件ではないが、スピリチュアルケアの場合はそうではない。「スピリチュアルケア」には講師からの学びだけを身に付けるのは充分ではない。「自己体験」と言っても全てのスピリチュアルな体験ではなく、自己スピリチュアル体験の特徴(質・有様)を掴むことである。例:計画なく導かれていたこと;日々の言葉の中で閃きをえたこと;花のなかの神秘を感じたことなど。
スピリチュアルな生き方
何となく、考えずに生きる習慣はスピリチュアルなものではない。スピリチュアルライブは自分の存在、その基や意味、その目標を考え続ける行為である。スピリチュアルライブは生き方の絶え間ない検査でもある。スピリットは生きている存在であり、死んだものではないからである。
スピリットによって自分が自分の存在の基ではないことを悟らせてもらう。同時に自分は有意義な不可欠存在であることを悟らせてもらう。例:指紋は自分だけの唯一の存在の証拠!
再び私事だ。年を取るに連れて、自己エネルギーは減っていくことを否定することはできない。従って自分に大切な面を再確認する必要がある。例:なぜまだ生きているのか。友人、同級生はもうこの世から旅立たれたのに。この記事を作成途中25才下の同僚は突然この世から旅立たれたのであった。“なぜ?”、“人間は平等ではない!”、“何のために生きているのか”。
日々の生き方を能力に合わせる習慣
私事:日々減っていく(いた)能力を有効に使用するのは厳しい課題である。必要とする課題ともうしなくてよい用事を区別し、それら(時間割/順)を守るのは強い意志が必要である。自分の平日の例として朝六時に起きる。シャワー、散歩、瞑想、食事、歯磨き、勉強。インターネット(メール、ニュース)は時間があるなら昼食前に。この順番は時に応じて内面的な闘いの基になることがある。シャワーの後すぐ勉強をするのが一番てっとり早いのだが、散歩(運動)、瞑想、食事は優先課題である。
ちなみに自分の生き方を他者に伝えるより、相手の生き方とそのコツ、結果や困難を聞かせてもらうことは有効ではないかと思う。
くり返しだが、スピリチュアルケアの基礎はスピリチュアルライブであり、資格ではない。
資格
最近ある学会の祝いに参加した。人間同士として関わっている人もいたが学会のメンバーとして挨拶し、知らない人に挨拶しないように振る舞っている人もいた。「学会とはなんだろうか」と新たにに考えさせられた。ちなみにその二週間前にドイツから日本に帰ったとき、となりの座席に一人の女性が座った。ご本人と自然に人間・生きる事などについて意見交換ができた。学会より内面的に満たされた。
日本だけではなくドイツも含む現代社会は「資格者の社会」になると言われている。「なるほど」と思える。散歩するとき、電車やバスに乗ると「共に乗る(居る)」のではなく「そばに乗る」と言えよう。散歩するとき、こちらから挨拶をしなければ、無言で通り過ぎるのは普通になっている。私にとって「単純な人間同士」ではなく、連れているペットの「飼い主(資格者)」として挨拶を交わす(相手になる)のは残念である。人間社会?
資格者ではなく自分であること
もう何十年も前のできこと。休暇で日本からドイツに帰った。その際、日本で宣教(仕事)ができるために寄付を集めたのは事実だが、二つの体験によって寄付を願う行為を止めた。一つは、知り合いの人に出会ったときのこと。相手が私と挨拶を交わしてからすぐポケットやハンドバッグの中に手を入れて、何か探していた様子だった。その行為の意味が分かったとき非常に不愉快になった。というのは、私が人間同士、友ではなく“寄付を集める人”として取り扱われたからである。
ドイツでのもう一つの体験。私はある修道院に行き、寄付を願った。受付の修道士に「何ですか」と聞かれ、「寄付をお願いできませんでしょうか」と言うと彼は「ないよ!」ときっぱり断った。私はさらに「私は日本で宣教活動している司祭です」と応えると修道士が怒って「なんで早く言わなかったのか」と言い、寄付してくださった。
私は以上の体験によって「司祭」言わば「資格者」として相手にされないために「司祭服」を止めた。人間同士として相手になってもらいたいからである。
自分自身になること
「nothing comes from nothing! 無から何も(生まれて)来ない!」
教育
自分の存在の元
知らない人に会えば「どこから」と尋ねるのはごく当たり前である。返事は「今住んでいる所」であるか、それとも「生まれた場所」を相手に答えるであろう。相手がそれで満足するのは日常の体験である。だがもっと深く考え、そうすれば周囲から“変わった人”と思われるかもしれないが、「人間の創造主(神)から来た」という答えもある。
自分を始め、人間は親や自分自身の作品ではなく、人間より優れた存在の「芸術作品」であると体験したことがある。だが教育は人の不思議がる機能を無視し、何もかも数字で説明する傾向があることは考えるべき課題である。人間には現実を数字だけではなく、不思議な面で理解する特徴があるからである。「不思議がる機能」は人間に品位を与える。詩、絵などは人間の尊さを表す。
さらに教育は何年間の過程ではなく、一生の過程であろう。自分の不思議さ~寝ることだけで疲れが取れること、夢を見ることなどはその不思議な現象、尊さを物語っているのではないか。自分自身を絶え間なく驚かせる現実。このように人間一人ひとりが個性的な作品であることは“指紋”が意識させてくれる。
こうした現実に対して自然に驚き、感謝するのではないか?
自己存在との関係の意志/意識化と育成は一生の過程であろう。
自分が人間同士であることを意識させてくれること
健康や病は人間としての品位の差の要因にはならない。人間のそれぞれの機能は同様でないことは日常生活で発見できる。健康や病気、タレントなどの差が人間はバラバラな存在ではなく、共に生きられる存在であることを自然に体験させてくれる。挨拶はその状態から自然に生じてくる。挨拶しない/できない社会は人間が基本的な生き方をまだ分かっていないか、それとも教育や学問によって失ってしまったのではないだろうか。
自分で考えること
教育は個人/自分で考えることを育てる行為である。私は高校時代の歴史の先生の言葉が深く心に残っている。「私(先生)のそれぞれの歴史の出来事の説明はあくまでも先生の考えであり、反復するものではない。君たちはそれぞれの出来事について自分で考え、判断して欲しい。先生の言葉・解釈をありのままで繰り返さないように気を付けなさい。君たちはオウムではないからである!」。
自分を知ること
先生を含めて他者からの自分に対する評価、フィードバックや意見はあくまでも他者の判断であり、必ずしも自分の考えと同様ではない。そのことを意識すれば健全であろう。
自分を活かす
教育の領域には限界がある。自分自身のタレントを発見し、活かすことは人生の課題であろう。学ぶことは幼い、若いときの課題ではなく、生涯の過程であるからだ。例:現代使っているパソコンをマスターしても絶えず発達するので使い方の研究も絶えずしなければならない。自分自身もそうである。変わる健康状態には継続的な研究や訓練はなくてはならない“務め”である。以前よりも仕事の効率は悪くなり、仕事の結果もあまり芳しくない事実は内面性(気持ち、機嫌)にネガティブ、マイナスな影響を与える。それらに対して気を付ける行為はさらにエネルギー、能力を使い込んでしまうのである。意義があり、プライドのある人生は最後になお闘いの場になる。
責任を持つこと
教育は自分の行動に責任をとることを育成させてくれるはずだ。善意をもって行動したのに上手くいかなかったとしても、誰かのせい(責任)にはしない。人格者は自分のことを自分の課題として認める人である。
教育は社会で共に生きられる人になるための基礎を育成する行為であって欲しい
生きることは一人でできることではない。人間になったことをはじめとして日々、他者の協力に頼らなければならない事実を悟らせてくれる。例:食料、交通機関など。
中心課題は絶えず人間として共に生きられる社会と世界を形成する努力である
教育は社会をバラバラにさせるものではなく、共に生きられる状況を立ち上げる協力者を育てるはずである。例:協力せず、自分さえよければ十分であると考えている金持ちや学者は教育の失敗であろう。
教育とは
例:会社員として義務を果たす前に、尊敬される個人になることが望ましい。会社に言われ、命令された丁寧な言葉には味がない。職員である前に周囲の人を尊敬し、生かせる人物が望ましい。共に生きることのベースは尊敬し合うことであり、不可欠条件だからである。人間はものではなく、唯一のかけがえのない存在であるからだ。こういう心構えはスピリチュアルケアの中心課題、ねらいでもある。
結論としてスピリチュアルケアは資格が問題ではなく、人間同士として自他を尊敬し合い、人間の価値を社会で保つための生き方の実践である。「資格者」ではなく、共に生きられる生活様式である。
スピリチュアルな生き方は“命の源”、“創造主”との関係を意識させ、形成させる努力である。繰り返し述べるが、資格ではなく尊敬している人間同士の行為である。