人間的な社会を目指して スピリチュアルケア誌79号 2018年4月 |
人間的な社会を目指して
自他の内面的な力を結集するとき
さまざまな不正義や争いがある現代の社会と世界
私たちは、理想的な人間に相応しい世界には生きていない。それは世界の問題である米国と北朝鮮やロシアとの関係、現在も続くシリアやアフリカからヨーロッパに渡る難民などについて考えることだけではない。身近な自己の周囲との関係を意識することから始めればよいと思う。例えば、あいさつは私が長く住む地域でも習慣ではない。まして、他の街に行けばなおさらのことである。私事だが、毎日の散歩では意識的にあいさつする努力をしている。だが無言のまま道を歩くのはほとんどの人にとって普通のようである。また人間同士よりもペットとの関係を優先にしている人は少なくない。それよりも母親と乳飲み子との関係には考えさせられる。今、幼子を抱いているにも関わらず、母親と幼子とのつながりは希薄であるように思われる。幼子はタブレットを見せられ、母親はその間ケイタイで他者に関わっている。それは身体が結ばれ抱かれていても、心は違ったものに結ばれているからのように思える。
現代社会に影響を与えた自己の信念をもった人物
現代社会は理想的ではないが、それにギブアップする必要もない。以下の三人の例は自己の信念を貫くことによって、社会の改善に寄与できることを物語っている。
例1:ビリー・グラハムは米国の宣教師。(1918年11月7日生まれで2018年2月21日、99歳で旅立たれた)彼はイエスを伝えるために、近代的なメディアを使い、185ヶ国で2100万人を目の前にしながら宣教された。イエス・キリストを大切にしている人々だけでなく、何かの方法で知っている人々もイエスとつながっている。たとえイエスの名前を知らない人であっても、何か自分が持っていないものが必要であることを意識しているなら、彼らはイエスとつながっている。それは、イスラームであっても仏教の信徒であってもそうであるというのが彼の信念であった。
例2:同じく今年3月14日に旅立たれたスティーブン・ウィリアム・ホーキング氏は76歳(1942年1月8日生まれ)だった。21歳から身体的に不自由な生活を送っていながら、物理学を追究し世界に新しい知識を提供された。1988年「A Brief History of Timeブリーフ・ヒストリー・オブ・タイム」を出版された。
彼のことばのいくつかは以下のとおりである。
・教養のある人、知識階級とはチェンジを恐れずに生きていること/コツ
・人生が面白くなければ悲劇であろう
・私は“すべては運命であり、何も変えることができないと言っていながら、その人は道路を渡る前に確認するではないか”思っている。[1]
例3:マララ・ユスフザイさんは2014年ノーベル平和賞を受賞した。2012年、15歳のとき通っていた中学校から帰宅するスクールバスに乗っていたところを銃撃され、頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒とともに負傷した。今月(2018年4月)、寄留先のイギリスからパキスタンに帰国した。彼女は自分を攻撃した人に手をさしのべるように、「私の夢が実現されて大変うれしいのです。私はスワート県を見ずに出たのですが、今見ることができるからです。私は自分の宗教に誇りをもっています。イスラームは平和、教育の大切さを教えてくれます。コーランの最初のことばは“読みなさい”、そしてマホメットのひとりの奥さんが商人であることは、女性の必要性を教えてくれます。私のスローガンは“教育”。それはパキスタンやイスラームに反対する動きではありません。」と語った。
当センターの目標と存在意義
以上の3人の方々は当センターが目指している「厳しい状況を生きるために、内面的な援助を必要とする人間同士として、相手になれる目標」に向かって生きる具体的なモデルであると思われる。しかし彼らの方法をマネるのではなく、まず自己の内面を発見し、それを絶えず育成しながら、必要とする相手に提供する行為が望ましい。具体的に言うと、それは個人的な信念に基づく生きる目標をもって、日々を過ごすことであろう。言い換えると、何かの運動や人から薦められたことなどではなく、自由意思をもって意識的に生きる決断が必要とされるのである。なぜなら成功しないことや、周囲に理解されずしかも反対されることも例外なことではないからである。人生を惜しむことなく生きようとする決断(決意)であろう。ちなみに“目標”と“手段”を区別する注意を怠らないこと!その上で相手が自分で出来ることは相手に任せ、また場合によってはその要求が必要なときもあるだろう。あくまでも相手を生かし、依存させないような行為が要求される。
たとえ寄り添う人であっても自分の生きる目標、そして目標に達する手段を知ることは相手を活かせる人間関係のベースになる。何となく生き、周りの習慣に従って生きる人は内面的な援助を必要とする相手になるのは難しいだけではなく、不可能であるかもしれない。
そばではなく 共に生きる行為
人間の社会/世界は「そばではなく、共に」生きるものである。そうでなければ滅びて行くだろう。社会において、病んでおられる状態の人たちと同じ人間として共に生きようとする関係は必要である。人間同士として援助を必要な人々を独りぼっちにしておくのではなく、できるだけ最期までその関わりを生きられるように努力するのは当センターの存在理由である。
当センターの理念(存在意義)は、必要とする人間同士の内面的な痛み-厳しい運命-を最小限でも人間らしく幸せに生きられるような援助ができるように研究し、それを実践するように、心身ともに力を尽くせることを目指している。
当会員は現実から目をそらさずに、現実をわずかでも「共に生きられる状況」への実現に向かって全力を尽くそうと努力している。例:「アメリカと北朝鮮」「アメリカとロシア」については、外国の問題であり、自分たちには関係のない問題だとか、仕方がないとは考えていない。人間同士として共に生きられるような責任を持っている。世界の問題のかたわらに暮らすのではなく、世界の中で生きる一人の人間同士として責任を持ち、力を尽くすフルメンバーであることを意識している。
世界の中に生きるのは相互の関係によるもの。社会は自分に影響を与え、自分も社会に影響させるような相互関係である。言い換えれば、より人間らしく生きられる社会を創るようにエネルギーを尽くすことである。
基本的な考察
人間の品位とは、一人ひとりが唯一の存在であることを意識する行為である。それは自分自身との関係から始まる。例:自分の信じている信条があっても、そうではない他の一人ひとりの人間は唯一の存在、つまり価値のあるものである。こういう理想を意識するだけでなく、実際の日々の生活の中でその多様性を意識し、それが現実になるように努力することは課題であろう。私事だが、幼児のときから「人間は神の子」と教えられ身につけさせられたが、現実は自分の品位よりも、自分の足らない点に(例:罪)ウェイトが置かれていた。したがって、今はそのネガティブな点に目を向けずに、品位を意識し、それを身につけることに力を入れることが必要となっている。例:あくまでも私の信仰であるが、イエス・キリストは私を自分の兄弟、友として聖書に取りあげておられることを信じている。[2]この信念を自分の中で生かすため、毎朝、自分の顔を鏡に映し、あえて笑顔をつくりながら「あなたが好きです」と呼びかけている。この自分に対する態度は、他者に対するイメージづくりに非常に役に立っている。一人ひとりはイエスの友であることを意識させてくれ、一人ひとりの中におられるイエスを意識し、他者を尊敬する手助けになっている。つまり他者を相手にすることは、自分を相手にすることから始まる。
人間とは
マイナンバーの導入は平成28年からであり「行政を効率化し、国民の利便性を高め、公平・公正な社会を実現する社会基盤です。」[3]とある。その意味においては確かに便利で有効な行為であるかもしれない。だが同時に、人間の品位を配慮できなくなる恐れもある。というのは医学において、人間は番号化によって非人間的な扱いもあり得るような恐れがあるからだ。病院では、診察室や支払いカウンターへの呼び出しの際は、個人のプライバシーの保護を行っている。だが、人間そのものをすべて「数字」として見ないように気を付けることが必要である。例:「がんのステージ3の人」、「65歳では○○は何パーセントの割合だ」など。人としての個性的な品位を忘れないように!
私は一人ひとりの人間をマイナンバーで認識することに対して、あまり人間の尊厳を意識しているとは感じない。それよりも大量生産や旧型の部品は製造を中止し、役に立たない(お金にならない)ものと同様に考えることのように思えるときがある。マイナンバーよりも、人間一人ひとりは唯一の存在であることを考えるとき、人間の指紋をその特徴として考えれば適切ではないかと思う。一人ひとりの人間は画家のオリジナルな絵のようである。この唯一さを考え、関わるとき、それを意識的に育てないと失われることを危惧している。それは自分自身に対する考え方から学べる。例:間違ったり、認めてもらえなかったり、意見を聞いてもらえなかったことや笑われても自分の唯一の存在価値を否定してはいけない。自分自身を歩み続けていく内面的な動きを進展させようとする行為が中心課題であることを忘れずに。このような生き方は他者に対しても一人の唯一の存在として尊重するようになるコツ、鍵となるだろう。
一人ひとりには唯一で入れ替えられない存在価値があること。ある病院で、一人の看護師が自死した。病院側はすぐに新しい看護師を募集しようとした。そのとき、医師を含めた看護師は反対した。「まず、旅立たれた仲間とのきちんとした別れをしなければ、新しいメンバーを入れることに賛成できない。そのために、医師と看護スタッフは遺体がないまま、自分の病院内で「お別れ会(葬儀)」を行い、一人の医師がオルガンを演奏した。このように人間は単なるひとつの数字としてあるのではない。
関係 生きることのベース
生きることの要因と本質は関係性である。親や祖先(人間)がいなければ自分の存在もない。こうした基本的な関係を否定し絶とうとしても、その関係そのものは否定できない。ちなみに人間を超えている存在との関係は別として、自己が大嫌いであっても、自死しようとしても、関係そのものを否定することはできない。
自他との相互関係は日々の生活の積み重ねであり、生きる基礎となるものであろう。周囲との関係、自己の内面性や研究から生きるヒントを発見することはごく自然である。日々意識的に生きるなら、ひらめきのような体験もまれなことではないだろう。私事だが、人間について考えていながら「人を見たらドロボウと思え」の諺を思い出し、“家の鍵”はそのひとつの結果として分かった気がした。
寄り添う行為
人々に寄り添うためのベースは最小限でも共に生きられることである。でなければ援助を必要とする人の相手にはなれないだろう。(例:物理学を追求するには人間関係よりも、研究課題との関係が中心になる)そして身体的、特に精神的に助けを必要と願う人間同士と関わりたいと思えば、人間関係の「共に生きる」ことを高度に修得すること。例:自己と同様に尊厳がある存在として他者と関われない人は自分より困った人、不自由になった人、いわば弱い人を必要としてしまう。それは無意識的であり、本人は意識していないことが少なくない。弱い人を必要とするのはひとつの病気と同様であり、こうした人は寄り添う行為としての資格を持ち得ない。例:ホスピスでボランティア活動する人は自分らしく生きること、病気になること、まして死ぬことを考えたことがないのなら、寄り添う資質があるとは言い難い。
自分より弱い人を必要とする人は、他者を自分の存在に意義を与えようと利用することになり、健全な関係が作られるとは言えない。他者の困難が自己のみじめさを隠す手段になりやすいからである。
相手に寄り添うには人生のアップアンドダウンを意識し、それを課題として研究し続ける、言わば自分の痛みとその不自由さに対する反応(見つけた方法)を知るべきである。言い換えれば,日々の生活の中で困難と生きる要素「コツ」を発見し、そして分かったことは他者にも理解できるような表現を身につける訓練をすればよい。
ちなみに日々、自己との健全な関係を育てる一つのコツとして、目覚めてから鏡の前に行き、自分とのアイコンタクトをもつことで新しい関係になることを体験している。
病んでおられる方に寄り添うには、まず日々の自分自身との意識的な寄り添いから始まると言える。
内面的な生き方(スピリチュアルなライフ)とは
自分で考え、
自分の能力と時間の使い方を工夫し、
自分で決断し、
自己の行為に責任をもっている人が
寄り添う行為に適切であると思われる。[1] Stephen Hawking’squotes:Intelligence isthe ability to adapt to change. Life would be tragic if it weren’t funny. Ihave noticed even people who claim everything is predestined, and that we cando nothing to change it, look before they cross the road.
[2] ヨハネ15:15 「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」
ルカ12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」
[3] Internet より