スピリチュアルケアの勉強室 2018年4月 |
心のケア(スピリチュアルケア)の基本と報い
心のケアワーカーの不可欠条件は
・自分の存在の源を知り
・自分の存在の目標/目的をもち、
・それに達する手段や方法について自分の考え/信念を持つこと。
ただ何かの教えや習慣に従って生活を送るのは不十分だ。同時に相手に自分の考えなどを教えるのではなく、必要に応じてのみ(!)参考のためだけ提供をすることである。何かのグループのメンバーを増やす行為ではない。あくまでも自分の内面的な生き方を追求しているパーソナリティであること。
スピリチュアルな生き方と心理的な生き方や伝統的な生き方と違っていることを知るべきである。自分の信念と責任を有するのは不可欠な内面性である。
今のとき、スピリチュアルケアはもてはやされているものと思って研修を受けてみるが、就職さきが見つからないためにそれを身に付けることを断念する人も少なくない。それはスピリチュアルケアの根本的な内容を把握できず、また発見もできなかった理由ではないか。私事だが、60数年前キリスト教の宣教師として来日したが賛同者はきわめて少ない。それだからと言ってイエスキリストとの関係を後にし、将来性のある職業に就くために、現代に要望のある心理学やカウンセリング、言語学(例:ドイツ語)に転職するわけにはいかない。このような行動を選択することは単なる手段であり、生きる目的とはならないからである。だがその現実は私自身にとってイエス・キリストとの関係を深めるきっかけになっている。特に日々の瞑想は儀式よりもイエス・キリストと共にいさせてもらうことによって、私の人生の内面性を豊かにしてくれる。
私自身が内面的な生活を送ったとしても、内面的な困難に直面しているだれをも相手にさせてくれる”資格認定書”にはならない。最近のことである。長年スピリチュアルな生き方に関心を示された方が重い病気になられて入院した。私は訪問の許可を担当の職員を通して本人に聴いてもらった。だが返事は「いいえ!」だった。二日後、職員を通してご本人からの「いぇす」の返事があり訪問ができた。そのとき私は相手の状況を話題にしないで、「私に言いたいことがありますか」と他者の話を中心にするように聴いてみた。これは私にとって新しい学びになった。
過去に二回ほど、訪問を断わられた体験があった。一回目は患者の病室ドアに「ご訪問ありがとうございました。私は一人でありたいのです、ご遠慮ください。」と張り紙されていた。二回目の方は丁度病室から出ようとしている時だった。訪問しようとしている私に、「帰りなさい」とハッキリ言われ、嫌な気持ちになって帰った。次の訪問で、相手に「帰りなさい」と言った理由を尋ねると、「タバコを吸いたかったから」という返事だった。(ちなみに私はタバコを好まない人だ。)
スピリチュアルな事柄を深め続け、スピリチュアルな生き方を追求しても、だれにでも適切な相手とはならないことを意識すればよい。その行動によって自分の内面的な生活(スピリチュアリティ)が深められることこそ宝物だと、閃くことは宝物になり得る。スピリチュアリティのキーワードは「成功」や「人気者」のようではなく、「充実感」や「意義のある人生の起因」になる。
新聞やテレビ、スマホや読書などのように、いつもの決まった行動ではなく、訪問する行為は毎回新しい出来事を体験させてくれる可能性がある。言い換えれば内面性を深め、成長させてくれるチャンスになり得る。