人生 一回のチャンス スピリチュアルケア誌78号 2018年1月 |
“人生 一回のチャンス”
ある先輩が誕生日を迎えたときのこと。わたしたちは「お誕生日おめでとう Alles Gute zum Geburtstag」と祝ったが、ある仲間は「長生きしますように」とお祝いのことばを述べた。こう言われた先輩は怒り、「これだけの年齢になったわたしに『長生きしますように』などと言うだろうか。この年齢でもう十分だ」とはき出すように言われた。この時の先輩の表情は今も記憶に残っている。もし「長生きしますように」の代わりに「納得できる日々を過ごせますように」、「ご自分を活かす日々に恵まれますように」という祝詞を述べたなら、この先輩は少しでも内面的な刺激を受けたかも知れない。
生きる事
年始や誕生の記念日などは自分自身のことやその存在について考え、反省する有益な機会になりうる。今まで当たり前にできたことが突然できなくなった時、「どうしたのか」と不思議に思ったり考えたりして、もしかすると叫びになってしまうことも例外ではないだろう。この内容について考えていたとき、知人からのプレゼントを思い出し、お礼の電話をかけた。「話し中」がしばらく続いた後、相手から電話があった。お礼を伝えたところ相手は「今そのことについて話すことができません。今日〇〇が亡くなってどうしたらよいか分からないのです」と電話を終えられた。
意義のある生き方をするためには、自分にとっては当たり前なことでも他者にとっては当たり前ではないことを日々意識すれば、人生は深められるのではないか。ドイツ語では能力やタレントを持つ人を「恵まれている(人) ein begnadeter Mensch」と表現する。だが音楽、哲学や芸術などの特別なタレントではなくても、日々必要とする才能があるのは「恵まれていること」であろう。例えば、よく歩けなくなったとき、歩けることのありがたさを体験させられることがある。私事だが、40歳までサッカーが自由にできていた。だがその後次第に走る事ができなくなり、長い時間歩くことも困難になった。日々近くの幼稚園児の姿を見るとき「彼らは長時間歩くことも早く走ることも上手になっていくばかりだ。自分とはまるで正反対である」との見解が生じてくるのは不思議な感情である。
年を取る/取らせてもらうことは単なるくり返しではない
現代、高齢化社会の特徴の一つは「認知症」である。それはケアスタッフにとって接遇の仕事上、困難な事の一つになっている。「(ケアを受ける)Aさんは毎日、同じことを言っている」と困惑することは少なくない。ところが「同じことを言うこと」の中に発見できるポイントがある。なぜAさんは同じことを繰り返し言う(叫ぶ)のだろうか?この変わらない叫びには多様性があると言っても過言ではないだろう。
わたしたち自身、「こんにちは」・「お元気ですか」・「久しぶりですね」・「また会いましょう」のような挨拶を日々繰り返し使っている。例えば「お元気ですか」と言いかわしたとしても、その内容は日々の習慣的なことばとか、あるいは忙しいので挨拶の代わりとしている。言い換えれば便利な手段として使っている。ところが同じ発言であっても、そのときの場面によって異なる言葉のニュアンスが含まれている可能性がある。その差異は相互の関係性の中から発見できる時がある。
人生
人生とは何であるか。人生は“平坦”(まっすぐ)な道ではない。私は、自分の体験や信仰上の教育と実践によってそのことをおぼろげながら認識するようになった。だが社会・人生に対する思想を学ぼうとする幼少の頃はネガティブな表現(〇〇しないこと)や事柄が多かった。例えば、親の言うことを聴かないこと、兄弟や友達とけんかしないことや学校でカンニングをしないこと、サッカーのファウルプレイをしないことなどは良心に背かないようにするためだった。逆に戦争を正当化することもあった。もし、ポジティブな事柄に刺激されていた幼少期だったら、人生に対する憧れは強くなっていただろう。この結果として人生は平坦な道ではないことと、不公平さが印象に残った。
学校教育から受けた人間と人生のイメージは“放物線”のようであった。身体的、知的な知識が得られただけではなく、さらに心理的、人間学的(哲学や宗教学や実践)などは成長させてくれた領域であり、生きた宝物になった。
人生の目標と手段の明確化
物事に役立つような生き方をするために、目標とそれに達する手段を明確にするのは中心課題になる。というのは目標に達することより、手段に自己のエネルギーを使い込んでしまえば、内面性は混乱する恐れがあるからだ。もし自分自身になりたいのであれば、外観よりも内面性が大切であろう。例えば、自己流であっても自分の考えをもつことに重点を置く。そして、読書から得た考えや知識を自分のものにするには、それを行動に移して初めて自分の信念になりえる。言い換えれば自己の体験をベースにすれば健全ではないだろうか。
心、善悪の領域の場合は自己の体験はなおさら必要である。というのは例えば信念・哲学や信仰の教えを自分の体験を元にして分かち合うなら、他者にインパクトを与えるのは例外ではない。現代、盲目的に受け入れている信仰(イデオロギー)の怖さは、IS(イスラム原理主義者)などのテロや暴力によって十分身に沁みている。同時に、ヨーロッパやアメリカのキリスト教徒の教会離れは、“個人の信仰の実践”と“教えられた信仰”との格差を物語っている。
誰もがとは言えないが、自己のアイデンティティー(個性・自分らしさ)を求める願望は、この上なく良く生きるための共通点だと言えよう。
自分自身になること
自己は大量生産される物の一つではない。現代のパスポートがその人自身であるか否かは指紋が証明になる。[1] 同様な指紋は他にはないからだ。“命の源”[2] にとって、一人ひとりはそれほどまでに価値のある存在なのである。したがって自己を大切にするのは傲慢ではなく、そのように努める必要があるのである。
唯一な人間になること
上述のように、指紋によって一人ひとりの人間の尊厳さに気づかされる。したがって“人間”になることの中心課題は自分自身であることである。人々は週に6日間働き、1日は自分自身として回復するためにもうけ、さらにいろいろな記念日や祭日は人間が機械ではなく、唯一な存在であることを再認識するためでもある。
したがってわたしたち人間は大量生産されたものではなく、一人ひとりは芸術作品であり、最小限の自分の考えや目標をもち、自己を尊敬する課題があるだろう。そのためには“自分はダメ”、“何もできない人”のような自己紹介が適切ではないことは明らかであろう。
データ それとも 唯一の存在
現在、人間は品物のようにデータとして対象化される過程にある。その一つは年齢を確認するためのものである。例:ドイツでは18歳以下の難民は特別に社会的な地位を与えられている。ところが最近、ある15歳の男性が自分の恋人を殺した事件が起きた。その結果、若い難民の年齢を再確認する必要性が生じた。15歳のこうした行為は考え難いからである。その方法として医療検査(例:レントゲン)が推薦された。特にパスポートのない難民の場合はその疑いが強いからである。ところが幸いに医療側はそれを拒否した。なぜなら一人ひとりの難民(人間)は尊重すべきであり、本人の許可のないこうした方法は人間の権利に背くからである。
人間は数字に置き換えられるような存在ではない。昨年ある研究会で、指導的立場にある一人の参加者は「人間は65歳位だと・・・、70歳や75歳などになると・・・という状況になる」というような見解を、自信をもって述べられた。それを聴いてわたしはショックを受けた。その人は他者に会う以前から、相手を一つのカテゴリーに入れているからだ。それは他者を尊敬し、相談相手になるためには避けるべき事柄である。
「一人ひとりは唯一の存在、パーソンだ。」と日々、自分自身がこういう認識を身に付ければよい。例えば「日本人はこうします」と言わずに、「日本人であるわたしはこうします」と言えるなら話し相手になれるのである。なぜかというと「日本人」や「アメリカ人」、「お寺」や「神社」、「医者」や「先生」などはそれぞれに固有性のあるものだからだ。もし誰かに会ったときは、その人との関係が中心であり、一期一会を望んでいる。
現代社会は「資格者」であることを要求される。今、少子化対策によって国はそのための施策に力を入れた援助は大きくなっているようだ。だが、それは子どものためというよりも、まず親に対する援助(はげまし)ではないかと考えられる。というのは、子どもの両親は「資格者社会/世界」で、競争のために自己を絶えずグレードアップすることを余儀なくされているからだ。したがって、競争社会で生き残れるために「子どもを育てる」ことは大きな責任を伴う行為であろう。
Yesterday is History きのうは歴史(過去)
Tomorrow is Mystery 明日は未知
Today is a gift 今日は贈り物である
アメリカ人のアリス・モース・アール(Alice Morse Earle)が、1902年に著した「Sun Dials and Roses of Yesterday: Garden Delights.」という本の中での言葉。