スピリチュアルケアの勉強室 2018年1月 |
同じ叫びやことば?
毎日のように同じことを叫び、言うことなど、同様な行動(態度)を取るのは考える能力を失っている訳ではない。私は、病院やデパートでの挨拶や礼儀上の言葉遣いなどは、ほとんど毎回同様な慣用句であることが気になっている。結婚式、礼拝や葬儀などのときの言葉も同様である。会社や団体などでマニュアルとして決められた言葉を使う際、毎回同じ気持ちや心で言うことを意識してはいないだろう。個々人の声の調子(イントネーション)や表情には変化があるのではないだろうか。例:警察官は飲酒運転する車を見つければ厳しく注意し、罰金の請求をする。だがもし自分自身に同じ体験があったり、相手が知人や友達であったりすれば、たとえ同じ言葉であったとしても、その中に違った声の響き(イントネーション)があるのではないか。私の記憶ではナチス・ドイツの時代、“ヒトラーの挨拶”を互いに交わすことは普通でした。その挨拶の形式は決まっていたが、イントネーション、目つき、まっすぐに伸ばした手などの有様によってその時その時の挨拶の本当の意味が伝わっていた。ちなみに今月、韓国で開催される冬季オリンピックでの選手の誓いには意味があるだろうかと懸念している! 4年前のロシアのオリンピックでの虚偽事実はそれを物語っている。[1]
結論として言いたいこと、理解してもらいたいのは、「同じ叫びや言葉」であっても、その内容は同様ではないことである。発言者の言葉だけではなく、まずそのときの状況、時間、その方の体験してきた事柄、表情やイントネーションなどを考慮してみる。なによりも“認知症”[2]とラベルを付けられた方に対する自分自身の態度や心構えを意識してみればよい。以下のように具体的に、この方のことを明確に認識することが大切である。
・以前持っていた能力の機能は変化している
・本人がその事実を納得し/できたであろうか、それとも否定しているだろうか
・周囲から“人生の厳しい状態にいる仲間”として尊敬され、相手にされているか
・それとも“障がい者”の“レッテル/ラベル”を貼り付けられ、“ケース(物扱い)”として取り扱われていないだろうか
自分が体験していない厳しさの中で生きる状態の人に、“レッテル/ラベル”を付けないことに注意すればよい。その代わりに人間の能力が制限されている方を尊敬し、その方から生きることを学び、健康は当たり前でないこと、望んでいない不便な生きる状況に対してギブアップするのではなく、それを生きる努力、そして独学されていることを評価すればよい。
毎日同じことを言う方、自分の状況を慣用句でしか伝達できない人であっても、「変わった人」ではなく、人生の未知の領域を現実に探検しようとする人(エクスプローラ)だ!
[1] 2014年のロシアでのオリンピックのドーピング問題。
[2] 「認知症」は「ちほう(痴呆)」に変えた呼称。平成16年(2004年)よりこの語に改められた。医学上の用語としては「痴呆(ちほう)」が使われる場合もある。精神病理学において「痴呆や痴呆性」とは社会生活を営むために身に付けた必要な精神的能力が、持続的、本質的に失われる状態をいう。