スピリチュアルケア誌74号 2017年1月 |
生きること
意識的に生きる人間 対 なんとなく暮らす人間
理事長 ウァルデマール・キッペス
「以前の生活とは180度変わりました。安心して日々の生活ができなくなりました」というような叫びは、自己を含めて病んだときには例外なことではない。そのとき「いったい(果たして)、今までの生活は何(理想的)だったのか」と考える。というのは身体的、精神的、経済的な状況は自分にとって十分だったとしても、果たして自分が納得するような生き方だったのか、と。たとえば自分の意見を持ち、挨拶や感謝をし、自他を理解し、許すように努力をしただろうか。それとも日々の生活は何も考えず、ただ周囲に従っただけだろうかと考え、反省させられる。以前の生き方も理想的ではなかったことに気がつくかもしれない。
健康に恵まれ、何もかも自分なりにできる生き方は、必ずしも健全であるとは言えない。
私事になるが、41歳で大学に再入学したときのことである。ハワイで入国管理の職員が私のパスポートを見て、「It’s never too late もう遅いということはない」と言った言葉は、今でも私の中で生きている。学ぶことは生きているかぎり大事だ!
人生は、絶えず磨くこと
今年のFacebookでの挨拶は「it’s never too late」をさらに熟考する。
~2017年の日々、
何が起こるか分からないが、
「もうだめだ」と言わずに
「チャレンジ!」と思って、
超えようとする意志と力が
一人ひとりにありますように願います!~
この挨拶に対する幾つかの反応は、さらに生きる刺激を与えてくれた。
・K氏 「先生やKシスターに会うと、心が癒やされ温かい空気に包まれている感じになります。私も誰かの温かい存在になれるようになりたいと思います。それには、自分を知ることだと思っています」。
・T氏 「毎日が出会いと発見の日々」、意識して過ごしたいと思います。
・N氏 「チャレンジ!」
今年も毎日が闘いです。
・F氏 私の今年の目標~
か→ 感謝を忘れない
き→ 共有する
く→ 工夫する
け→ 謙虚さを忘れない
こ→ 向上心を持つ
今朝、自分の中からかでてきました。目標を持って、チャレンジします。
・F氏 「チャレンジ!」なんとキラキラと未来を感じる言葉。
一人ひとりが持つ「チャレンジ」。その限りない未来への輝きを生かす(活かす)も自分次第。
己を信じ私らしく「チャレンジ」。
なんとなく生きることと、意識的に生きること
私事になるが、すでに何十年も生きていながら、朝と夕方に見える太陽の変化を想像できない。目で見る現実と頭で理解することのギャップは大きい。地球が太陽の周りを回っていること、地球の地軸は傾斜していることなどは学んだが、実際に見た体験はない。どうしても想像力が及ばない。
たとえば、福岡から東京と、東京から福岡の距離は同じであるが飛行時間は同じではない。福岡―東京間は90分、東京―福岡間は120分かかる。新幹線なら行きと帰りの時間はほぼ同様である。~博多―東京間は5時間10分、東京―博多間は5時間14分~。これはなぜ?
もし自己の内面における日々の「なぜ」が鈍くなり、やがて聞こえなくなってしまうなら、人生は荒れ地のようなものになるだろう。反対に、当たり前なことは当たり前なことではなく、今まで理解できなかったことがいつか理解できる時がくるかもしれないという希望を持ち続けるなら、日々の生活(生き方)は生き生きしたものになる。
最近のことである。
今、PCを使ってこの記事を書いている。PCは便利だが、操作は分かっても機械のことは分からない。もし日々、分からないことに対する好奇心が少なくなるなら、内面性は浅くなり、やがてすっかりなくなってしまう恐れもある。その結果、自分の内面から活かされるのではなく、絶えず外からの刺激による依存者になり得る。その一つの例は、電車の中でスマホに夢中になっている人々であろう。「自分の中」からではなく、外から来る刺激によって、一喜一憂して落ち着かない状態になる恐れがある。スマホを操作する人の顔を観察するとよい。スマホを相手にしているときの生き生きした表情に比べ、スマホを見ていないときの顔の変化は印象的である。
納得できる人生のためには生き生きした心の存在がベースになる。それは単に知識を集約することではなく、自己を活かし、価値のある事柄を取捨選択し、それらを育てていくプロセスは、やがてライフスタイルになる。自分に価値あるものと、そうでない事柄を正直に判断し、誰かに言われたからなどではなく、自己の決断、意志と責任において実行する訓練は不可欠である。希望どおりにも、考えたとおりにもならなかったが、再び工夫してみよう!という心構えは核になる! 人生において、特に内面性は育成しやすい主題(テーマ)ではない。信念とは、いわば内面性が活かされる原動力であり、「……つもりだった」のようなパターンの生き方は、人生に意義を与えるようなものではない。日々を生きる努力による自己の意志や体験に基づいた生活様式は、自他が信頼できる人格(者)を育成する基本になるだろう。それには厳しい訓練と意志を要求される。自己体験だが、インターネットの依存者にならないために日々闘っている。それは必要とするインフォメーションと、ただの好奇心を満たすものかを選択する基準に従うことである。知識量ではなく、内面的な深さは人生や生き方を左右するからである。
生きる意義は伝統や習慣を繰り返すのではなく、自分で考える自分のスタイルが大事
生きるためには考える余裕があることは大事だ。一週間に一日の休みの日があり、また特別な記念日や祭日もある。休日や祭日の意味は、私たち人間にとって意義のある人生を送るために、仕事や務めから解放される時が欠かせないからである。一人ひとりは自分がリラックスできる方法を見つけ、それを実行する意志を持たなければ、休日のために逆に疲れるかもしれない。ゆっくりすること、リラックスできる方法や内容は多種多様である。人間には異なるニーズがあるからだ。
例で説明すると、10月と年末年始にかけてさまざまな祭日がある。それらの意味について考え、自分にとって必要であり、参考になる事柄の有無を工夫すれば、人生を裕福にすることもできる。具体例の一つとして:
今上天皇が1933年12月23日にお誕生された時、国民全体は非常に喜んだ。今上天皇には4人のお姉さんがいらっしゃったが、初めての皇嗣誕生の喜びは特別なものがあったと、ある宣教師の記事で分かった。だが、イエス・キリストのお誕生は、まるで反対だった。お生まれになるための宿もなく、馬小屋の飼い葉桶だった。喜んだ人は当時、身分の低い人として軽蔑されていた羊飼いだけだった。
ちなみにイエス・キリストのお誕生日の記念は、数百年後に初めて記念日として祝うようになった。「イエス・キリストの記念(ミサ)」は、イエス・キリストの誕生日を指すのではなく、「イエス・キリストの死と復活の記念」なのである。復活=今も生きていることを祝うのは、一般的な誕生日記念と異なっている。現代の「クリスマス(キリストのミサ)」の祝いは本質から離れ、変化されていると言えよう。
以上の祝日や祭日においては自分自身との関係が中心課題になる。過去何十年間の経験から学び、自分に必要であるかないかを区別し、それを実行するには自己の厳しい訓練が必要である。「……つもりです」とか、「そのつもりだった」のような言葉は訓練の習熟度を現している!
私事になるが、幼い頃、クリスマスによく腹痛をおこした。10歳頃、その痛みはクリスマスのクッキーの食べ過ぎであることが分かり、食べることには限度があるという基準を得た。(他者からではなく自分の体験から学んだコツ、いわば独学)。
独学は自分自身になる唯一の手段だ。誰かに言われたとおりの生活を送り、思いどおりにならなかった時に「言われたから」と言い逃れをするのは例外ではない。だが自分の判断と責任で行動したことであるなら、思ったとおりにならない時でも、自分で責任を取り、あらたに考える。この繰り返しによって「よくできた人」、「信頼できる人」として評価されることもある。自らを自己判断できるのは「寄り添う人」の基本的な必要条件であろう! 反対に、何も考えずに習慣や伝統に従って生きている人は寄り添うことができる人ではなく、寄り添ってもらう必要のある人だと言えよう。
意識的に生きるには、日々(伝統、習わし、祭り)の内容について最低限でも考えることは不可欠である。その場合、周囲から“変わった人間”と思われるかもしれないが、信念のある人間になるだろう。
伝統的な祝いから学ぶこと
記念日や祝日、祭りなどは、単純な繰り返しの日々からの解放となり、生きる意味や状況をチェックし、改める機会になる。納得できる人生であるには、定期的にその意味と目的を再確認する必要があろう。身体を定期検診することと同様に。人生は一回限り、Only Once!
私事になるが、私は伝統や儀式的なことなど、考えることなく慣れた様式で過ごさないように努めている。信仰の祭(例:クリスマス)も毎年同じではなく、意識して行うように努めている。ちなみにその結果、ときに人間関係が複雑になることもある。私にとって祭日が、毎回行う繰り返しのようであれば、人生をより豊かにさせてくれるものどころか、かえって疲れる日々となる恐れがあるからだ。私は祭日の意味や内容を考えることによって人生の意味を再認識し、できるだけ意義のあるひとときを過ごしたい。
人 生
人生は「Only Once!」であり、人間は「Only One!」である。「指紋」はそれを証明している。(現在、テロの犯人を識別するのは「写真画像」ではなく、「指紋」が中心要因になっている。パスポートも同様である。) 各々は違っている唯一の存在であると同時に、その人生は健康、タレント、機会(chance)や人生の長さlife span によって異なっている。今年過ごせた祝日や記念日を再び迎えられることは当たり前ではなく、保障されていない。この記事を書きながらも、知り合いが40歳で旅立たれたことを知らされ、病気とケア制度によって苦しむ年配の方の叫びを聞かせてもらった。その時、援助する側の自分の無力を体験し、世界中に起こる殺戮(テロや内戦)や多くの難民の存在、インターネットはプライバシーの保障もできない世界に変化し(例:dark net)、うそが本当のように思い込まされる理想的でない事柄は数多い。
以上のような、人間らしく生きられない状況に対する無力感、生きることに意味を見いだせないこと、自分で考えたり工夫できる分野などを見つけられずに諦めてしまったりするのもしかたないことである。だが同時に、人類の好ましくない過去と現実も意識しながら、わずかでも人間の内面的なグレードアップ、言わば献身的な生き方の実現も確信できる。
私事になるが、40数年前からスピリチュアルケアは医療にとって必要不可欠な要因であることを訴え追求しているが、現在は少し芽生えてきたと思えるからだ。
私が日々できることを述べてみる。
・スピリチュアルケアの理解、その必要性の意識化が現れる時への希望を持ち続ける。
・感謝:自分が生きていること。心身ともに健康に恵まれていること。
・挨拶:日々、健康のために散歩の途中で、人に挨拶すること。
・医療施設のスタッフと患者さんの叫びに耳を傾けること。「はい、はい、分かりました」と受け取るだけではなく、参考として自分の考えを提供し、それが頭から断られることも冷静に受け入れる努力をすること。
・信仰は儀式としてではなく関係であること。その関係は法律のようなものではなく、自由意志によって行われること。
信仰(超自然者との関わり)は最終的には“神秘である”ことを意識し、それから生じてくる多様性を尊重し、研究すること(信仰には成長段階がある:信仰→知識→見ること=神秘 を意識し追究する)。
・困難を伴うプロジェクトの実現への希望を持ち続けること。
生き続けること
生きることは道であり
自分の道を見つける
その道はストレートではない
生きることは道
この道はストレートではなく、カーブの多い道
この道を闘って、ゴールまで歩み続けるパワーは使命感
使命感は知的な要因ではなく、心の力
スピリチュアルな要因である
2017年は自他のこの要因を多いに利用できるよう、互いに挑戦し支え合えますように