2016年 02月 02日
スピリチュアリティとスピリチュアルケア スピリチュアルケア誌 2016年1月 |
スピリチュアリティとスピリチュアルケア
理事長 ウァルデマール・キッペス
初めに
「先日、病院の緩和ケア委員会に参加し、わたしは愕然としました。「生きる気力がない」と話す患者さんに対して、何かいい薬はないかと話し合っているのです。 しかし、「それはスピリチュアルな痛みです。その方にはスピリチュアルケアが必要です」と言えないわたしがいました。わたしには何の発言権もないのです。 発言権があるのは医師、認定看護師、薬剤師など。病院である程度、認知された地位がないと発言すらできないし、ひとりのスタッフが何を言っても聞く耳をもってもらえないということに気づきました。…緩和ケア認定看護師になった方がスピリチュアルケアの実践を可能にできると思います。」(昨年ある方から、このようなe-mailを頂いた)
1)スピリチュアルケアの基礎
毎日は日々の繰り返しではなく、初めて迎える一度きりの「今日」を新たに生きるチャンスだ。今年の元旦は昨年の元旦と同じではない。それを感じられるかどうかは日々の内面的な生き方による。現在、すでに完成し固定されたものはなく、人間を含む全ては発生しつつ、変化しつつの過程を生きている存在である。一年のスタートはスピリチュアルケアの基礎や目的を再確認、改善する機会でもある。
スピリチュアルケアのベースはスピリチュアリティ
スピリチュアリティのベースはスピリチュアルライフ
スピリチュアルライフのベースはスピリチュアルな体験
スピリチュアルな体験は本人の工夫によらない賜物・神秘である。
2)スピリチュアルな体験、神秘
生きていること、心臓が絶えず動いていること、空気を吸うこと、食べること、消化できること、寝ることなどは当たり前ではない。身体の一つの機能が変化し、慣れている状況が一変したとき「なぜ?どうして!」と叫ぶことは少なくない。そのとき、五体満足は当たり前ではないこと、身体機能の故障は単純に修理工場で直すようなものではないことを体験する。
共に生きることも当たり前ではないことを体験させられる。親・兄弟・親戚などの血縁は自分が選べるものではなく、その関係を受け入れるために闘いがあることも例外ではない。一方で思いがけない人と気が合うことがある。まるで「見えない糸で結ばれている」かのように。
人生には日々、不思議がある。自動車が走り飛行機が飛ぶこと、ペットの忠実さ、人間の心の有り様…不思議は様々である。
昨年11月、パリで起こったテロによって妻を殺された若いフランス人男性の「テロリストの心に”憎しみのプレゼント”を贈らない」と発言する心の持ちようには驚かされた。
自分の心身をはじめとして、自然や人間の善し悪しの体験を通して不思議なことと出遭う。不思議を発見する感受性はスピリチュアルな次元のベースになる。何もかもを当たり前のように受け取る姿勢はスピリチュアルな次元への扉を塞ぎ、スピリチュアルな感性を鈍らせてしまう。自分が生きていること、昼と夜、四季の変化、コンクリートの小さな割れ目からも花が咲くことは不思議だ。不思議がる心そのものさえもそうである。
3)スピリチュアルライフ、スピリチュアルな生きかた
スピリチュアルなライフスタイルとは、日々を意識的に生きること、その努力である。
習慣的な、または周囲に合わせた生き方を送るかどうかは、ある程度個人の選択によるものである。教育されたことや世間的・職業的マナー、宗教的儀式、またIT、TVなどからの情報や広告、スマートフォンなどは場合によって個人の内面性の深まりや能力の可能性を奪う。仕方なしにではなく、当たり前でもなく、この日、この環境・状況が“何かを体験させてくれる”と期待する心や不思議がる心を持つことは自分を活かし内面的に豊かにしてくれる。逆によく考えずに生きることは内面性を減らし、人生を乏しくさせてしまう。
私自身について言えば、寒い朝にヒーターで身体を温めたりお風呂に入ること、散歩ができ途中で挨拶を交わすこと、日々の食事、仕事ができる時間・環境、援助してくれる人やパソコン、祈ること…などは私の内面性を活性化する。これらは当たり前にあることではなく日々届けられる“新しいニュース”であり、その日その日に届くプレゼントである。内面的な生き方(日々に意識的に生きること)によって、新しい何かと出会うチャンスが生まれる!
私はこの頃同じ用件をするにも以前より時間や能力を多く必要とする。結果、新しい時間配分が必要となり大切なこととそうでないことを区別しなければならない。そのためには趣味や仕事を見直し、自分の価値観を新たに明確にしなければならず、内面的な闘いが必要になっている。スピリチュアルライフは歳月の長短ではなく、与えられた日々に命=心を込める行為/努力である。
4)スピリチュアリティ、体験/経験
スピリチュアリティは生きていれば身に付くというような安易なものではなく、日々新たに育てていくものである。言い換えると、人間が自他の内面性を活かし、心身共に成長しつつ生きられる社会(共生社会)の形成のため、責任をもって協力していく行為である。そのためには自分に与えられている能力を見い出し、意識し、磨き、賢明に活用することである。また、年齢につれて身体的機能が弱っていくことも意識し、しっかり訓練を継続しながら大切に維持することは大切であり、同時にいのちに尊厳を与える。
私にとって、スピリチュアリティによる人生の目標は、保証のない人生、その日々の変化を前向きに生きようとすることであり、それは闘いでもある。自己中心的で無責任な生き方は健全な内面性を育むものではありえない。生きることは他者との関係から始まり、その核は“共に生きること”である。人間は関係による存在だからだ。
5)スピリチュアルケア
実存的な体験/経験 と 勉強/研究/講義で身に付けた生き方の比較
① 自然科学と精神科学
スピリチュアルな事柄、その理解と発見はスピリチュアル・ケアワーカー自身の内面的な生き方(自己のスピリチュアリティ)がベースとなる。内面的な生き方を構成する要素~信頼、真実、忠実、人生の目標など~を自然科学の観点で計ることはできない。例:血圧や体温は計れても忠実度、責任感は計れない。つまり、スピリチュアルな要素は講義で身に付けられるものでも、検査やチェックリスト、アンケートで計れるものでもない。
自然科学と精神科学、どちらに属する事柄かを区別できる知識や能力はスピリチュアルケアにおいて不可欠な条件である。スピリチュアルケアは知識として学ぶことよりも、まず、自分の言葉、自分の不安、自分の目標・希望(例:成功すること、相手に受け入れてもらうこと、自分にできること/できないこと)などを意識していくことから始まる。
スピリチュアルケアは精神医学を含む医学の対象ではない。例えば鬱はスピリチュアルケアの対象ではなく、まず精神医学(=自然科学)の課題である。言い換えると、鬱そのものを生きることはスピリチュアルケアの対象であり、鬱を治すことは精神医学の課題になる。
ちなみにこうした課題~鬱を解決する(治す)と鬱を生きる(癒す)~を区別するための訓練の必要性をスピリチュアル・ケアワーカーは特に意識するべきである。自然科学(=精神医学)と精神科学(=信念、哲学、信仰、宗教)は別々な領域であり、それらを混同しないように注意し、スピリチュアル・ケアワーカーは鬱=病気を治す役目はもっていないことをわきまえることが重要である。同様に精神医学者はスピリチュアルな次元に手を触れないように気を付けるべきである。
スピリチュアルケアは心理学の領域でもない。言うまでもなく心理学的な事柄は大事でありながらも自然科学の課題であり、精神科学、つまりスピリチュアルなものではない。
スピリチュアル・ケアワーカーは教える人ではなく、「今」という時のなかで相手から学ぼうとする人である。患者はケア対象者(=ケース)ではなく、それぞれの人生の主人公であり、互いが本物(実存)として出会う一期一会の出会いの時なのである。その出会いは必然であり、当たり前でも偶然でもない。
② 人との出会いとみるか、単なる患者訪問とみるか
・患者に人間をみるか、それとも病気をみるか
・自己の体験と生き方に基づいた出会いなのか、教育を受けたプロのケアワーカーとしての出会いなのか
・自己の経験から得た人生観に基づいて行動するのか、医療施設や機関から要求されるマナーに基づいて行動するのか
・自己の体験に基づいた知識なのか、学びや研究に基づく知識なのか
例1.男性として腹痛を体験しているが、妊婦の腹痛は読み物や体験者の話によってしか分からない。
例2.食物が消化されたことを体験しているが、消化の過程は感じ取れない。
例3. 同じような外科手術を受けても、その体験は人によって異なっている。もし同様な体験をしたとしても、それを表現する単語や語句の概念が同じかどうかは分からない。
現実の感じ取り方、体験や知識には多様性があり、同じ単語を使いながらも、感じとる内容に多様性があることを意識しておく必要がある。例:現代、難民や宗教的迫害の情報が耳に入っても、各人の受け取り方が異なることを日々体験できる。
・命を生きることの体験と、命についての知識や研究との違いを意識すべきである。
癌の専門医は癌に関する知識は豊富であっても癌患者の体験自体は想像するしかない。
癌患者は癌の生物学的な成り立ちは解らないかも知れないが、癌を実存的に体験している。一方、医師は癌の病理的な過程については詳しくても、癌を実存的に~生きるか死ぬか~としては体験していない。
6)使命感
生きることに「免許」はなく、絶えず生きながら学んでいく課題である。幼児が乳を飲むことから始まり、寿命の最期を迎えるまで、生きるための学びは続く。それぞれの人の内面性は育て磨き上げていく途上にあるものである。
生きることはスピリチュアリティを活かすことであり、学習と成長をも必要とする生涯の課題である。スピリチュアルケアには自己の感性、成熟、スピリチュアリティが写し出される。生きる上で勉強や研究は必要であるが、体験・経験に基づいて自ら学ぶことの代わりにはならない。例えば現在、急増する難民や異なる人生観(宗教)を根絶しようとするイデオロギーなどと共に生きるための手本はない。言わば、これらも自らが学んでいかなければならない課題である。
スピリチュアルケアとは職業や資格の有無を問う前に個人の内面的な動きから生まれる、いわば使命感によるものである。
終わりに
初めに挙げたEメールのように、「生きる気力に効く薬」はなく、「理想的な死に方の指導」もない。それは個々人の人生において、自らが学ぶ自己のスピリチュアリティの課題である。また、あることについて発言を許される、許されないという問題ではなくて、そこには自分自身の実存的な生き方があるだけである。
理事長 ウァルデマール・キッペス
初めに
「先日、病院の緩和ケア委員会に参加し、わたしは愕然としました。「生きる気力がない」と話す患者さんに対して、何かいい薬はないかと話し合っているのです。 しかし、「それはスピリチュアルな痛みです。その方にはスピリチュアルケアが必要です」と言えないわたしがいました。わたしには何の発言権もないのです。 発言権があるのは医師、認定看護師、薬剤師など。病院である程度、認知された地位がないと発言すらできないし、ひとりのスタッフが何を言っても聞く耳をもってもらえないということに気づきました。…緩和ケア認定看護師になった方がスピリチュアルケアの実践を可能にできると思います。」(昨年ある方から、このようなe-mailを頂いた)
1)スピリチュアルケアの基礎
毎日は日々の繰り返しではなく、初めて迎える一度きりの「今日」を新たに生きるチャンスだ。今年の元旦は昨年の元旦と同じではない。それを感じられるかどうかは日々の内面的な生き方による。現在、すでに完成し固定されたものはなく、人間を含む全ては発生しつつ、変化しつつの過程を生きている存在である。一年のスタートはスピリチュアルケアの基礎や目的を再確認、改善する機会でもある。
スピリチュアルケアのベースはスピリチュアリティ
スピリチュアリティのベースはスピリチュアルライフ
スピリチュアルライフのベースはスピリチュアルな体験
スピリチュアルな体験は本人の工夫によらない賜物・神秘である。
2)スピリチュアルな体験、神秘
生きていること、心臓が絶えず動いていること、空気を吸うこと、食べること、消化できること、寝ることなどは当たり前ではない。身体の一つの機能が変化し、慣れている状況が一変したとき「なぜ?どうして!」と叫ぶことは少なくない。そのとき、五体満足は当たり前ではないこと、身体機能の故障は単純に修理工場で直すようなものではないことを体験する。
共に生きることも当たり前ではないことを体験させられる。親・兄弟・親戚などの血縁は自分が選べるものではなく、その関係を受け入れるために闘いがあることも例外ではない。一方で思いがけない人と気が合うことがある。まるで「見えない糸で結ばれている」かのように。
人生には日々、不思議がある。自動車が走り飛行機が飛ぶこと、ペットの忠実さ、人間の心の有り様…不思議は様々である。
昨年11月、パリで起こったテロによって妻を殺された若いフランス人男性の「テロリストの心に”憎しみのプレゼント”を贈らない」と発言する心の持ちようには驚かされた。
自分の心身をはじめとして、自然や人間の善し悪しの体験を通して不思議なことと出遭う。不思議を発見する感受性はスピリチュアルな次元のベースになる。何もかもを当たり前のように受け取る姿勢はスピリチュアルな次元への扉を塞ぎ、スピリチュアルな感性を鈍らせてしまう。自分が生きていること、昼と夜、四季の変化、コンクリートの小さな割れ目からも花が咲くことは不思議だ。不思議がる心そのものさえもそうである。
3)スピリチュアルライフ、スピリチュアルな生きかた
スピリチュアルなライフスタイルとは、日々を意識的に生きること、その努力である。
習慣的な、または周囲に合わせた生き方を送るかどうかは、ある程度個人の選択によるものである。教育されたことや世間的・職業的マナー、宗教的儀式、またIT、TVなどからの情報や広告、スマートフォンなどは場合によって個人の内面性の深まりや能力の可能性を奪う。仕方なしにではなく、当たり前でもなく、この日、この環境・状況が“何かを体験させてくれる”と期待する心や不思議がる心を持つことは自分を活かし内面的に豊かにしてくれる。逆によく考えずに生きることは内面性を減らし、人生を乏しくさせてしまう。
私自身について言えば、寒い朝にヒーターで身体を温めたりお風呂に入ること、散歩ができ途中で挨拶を交わすこと、日々の食事、仕事ができる時間・環境、援助してくれる人やパソコン、祈ること…などは私の内面性を活性化する。これらは当たり前にあることではなく日々届けられる“新しいニュース”であり、その日その日に届くプレゼントである。内面的な生き方(日々に意識的に生きること)によって、新しい何かと出会うチャンスが生まれる!
私はこの頃同じ用件をするにも以前より時間や能力を多く必要とする。結果、新しい時間配分が必要となり大切なこととそうでないことを区別しなければならない。そのためには趣味や仕事を見直し、自分の価値観を新たに明確にしなければならず、内面的な闘いが必要になっている。スピリチュアルライフは歳月の長短ではなく、与えられた日々に命=心を込める行為/努力である。
4)スピリチュアリティ、体験/経験
スピリチュアリティは生きていれば身に付くというような安易なものではなく、日々新たに育てていくものである。言い換えると、人間が自他の内面性を活かし、心身共に成長しつつ生きられる社会(共生社会)の形成のため、責任をもって協力していく行為である。そのためには自分に与えられている能力を見い出し、意識し、磨き、賢明に活用することである。また、年齢につれて身体的機能が弱っていくことも意識し、しっかり訓練を継続しながら大切に維持することは大切であり、同時にいのちに尊厳を与える。
私にとって、スピリチュアリティによる人生の目標は、保証のない人生、その日々の変化を前向きに生きようとすることであり、それは闘いでもある。自己中心的で無責任な生き方は健全な内面性を育むものではありえない。生きることは他者との関係から始まり、その核は“共に生きること”である。人間は関係による存在だからだ。
5)スピリチュアルケア
実存的な体験/経験 と 勉強/研究/講義で身に付けた生き方の比較
① 自然科学と精神科学
スピリチュアルな事柄、その理解と発見はスピリチュアル・ケアワーカー自身の内面的な生き方(自己のスピリチュアリティ)がベースとなる。内面的な生き方を構成する要素~信頼、真実、忠実、人生の目標など~を自然科学の観点で計ることはできない。例:血圧や体温は計れても忠実度、責任感は計れない。つまり、スピリチュアルな要素は講義で身に付けられるものでも、検査やチェックリスト、アンケートで計れるものでもない。
自然科学と精神科学、どちらに属する事柄かを区別できる知識や能力はスピリチュアルケアにおいて不可欠な条件である。スピリチュアルケアは知識として学ぶことよりも、まず、自分の言葉、自分の不安、自分の目標・希望(例:成功すること、相手に受け入れてもらうこと、自分にできること/できないこと)などを意識していくことから始まる。
スピリチュアルケアは精神医学を含む医学の対象ではない。例えば鬱はスピリチュアルケアの対象ではなく、まず精神医学(=自然科学)の課題である。言い換えると、鬱そのものを生きることはスピリチュアルケアの対象であり、鬱を治すことは精神医学の課題になる。
ちなみにこうした課題~鬱を解決する(治す)と鬱を生きる(癒す)~を区別するための訓練の必要性をスピリチュアル・ケアワーカーは特に意識するべきである。自然科学(=精神医学)と精神科学(=信念、哲学、信仰、宗教)は別々な領域であり、それらを混同しないように注意し、スピリチュアル・ケアワーカーは鬱=病気を治す役目はもっていないことをわきまえることが重要である。同様に精神医学者はスピリチュアルな次元に手を触れないように気を付けるべきである。
スピリチュアルケアは心理学の領域でもない。言うまでもなく心理学的な事柄は大事でありながらも自然科学の課題であり、精神科学、つまりスピリチュアルなものではない。
スピリチュアル・ケアワーカーは教える人ではなく、「今」という時のなかで相手から学ぼうとする人である。患者はケア対象者(=ケース)ではなく、それぞれの人生の主人公であり、互いが本物(実存)として出会う一期一会の出会いの時なのである。その出会いは必然であり、当たり前でも偶然でもない。
② 人との出会いとみるか、単なる患者訪問とみるか
・患者に人間をみるか、それとも病気をみるか
・自己の体験と生き方に基づいた出会いなのか、教育を受けたプロのケアワーカーとしての出会いなのか
・自己の経験から得た人生観に基づいて行動するのか、医療施設や機関から要求されるマナーに基づいて行動するのか
・自己の体験に基づいた知識なのか、学びや研究に基づく知識なのか
例1.男性として腹痛を体験しているが、妊婦の腹痛は読み物や体験者の話によってしか分からない。
例2.食物が消化されたことを体験しているが、消化の過程は感じ取れない。
例3. 同じような外科手術を受けても、その体験は人によって異なっている。もし同様な体験をしたとしても、それを表現する単語や語句の概念が同じかどうかは分からない。
現実の感じ取り方、体験や知識には多様性があり、同じ単語を使いながらも、感じとる内容に多様性があることを意識しておく必要がある。例:現代、難民や宗教的迫害の情報が耳に入っても、各人の受け取り方が異なることを日々体験できる。
・命を生きることの体験と、命についての知識や研究との違いを意識すべきである。
癌の専門医は癌に関する知識は豊富であっても癌患者の体験自体は想像するしかない。
癌患者は癌の生物学的な成り立ちは解らないかも知れないが、癌を実存的に体験している。一方、医師は癌の病理的な過程については詳しくても、癌を実存的に~生きるか死ぬか~としては体験していない。
6)使命感
生きることに「免許」はなく、絶えず生きながら学んでいく課題である。幼児が乳を飲むことから始まり、寿命の最期を迎えるまで、生きるための学びは続く。それぞれの人の内面性は育て磨き上げていく途上にあるものである。
生きることはスピリチュアリティを活かすことであり、学習と成長をも必要とする生涯の課題である。スピリチュアルケアには自己の感性、成熟、スピリチュアリティが写し出される。生きる上で勉強や研究は必要であるが、体験・経験に基づいて自ら学ぶことの代わりにはならない。例えば現在、急増する難民や異なる人生観(宗教)を根絶しようとするイデオロギーなどと共に生きるための手本はない。言わば、これらも自らが学んでいかなければならない課題である。
スピリチュアルケアとは職業や資格の有無を問う前に個人の内面的な動きから生まれる、いわば使命感によるものである。
終わりに
初めに挙げたEメールのように、「生きる気力に効く薬」はなく、「理想的な死に方の指導」もない。それは個々人の人生において、自らが学ぶ自己のスピリチュアリティの課題である。また、あることについて発言を許される、許されないという問題ではなくて、そこには自分自身の実存的な生き方があるだけである。
by pastoralcare-jp
| 2016-02-02 14:46
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