2015年 02月 03日
寄り添うことを目指して スピリチュアルケア誌66号 |
寄り添うことを目指して 自己アイデンティティ
初めに
変えることのできない現実や思い通りにならない人生と直面している人は多い。昨年のエボラ出血熱の発生によって苦しんでいる人、イスラム国による虐殺とそこから逃れて難民となった人、昨年末に起こったエアーアジアの墜落事故によって家族や友人を失った人、また難病やアルツハイマーなどの認知症や末期がんで苦しんでいる人とその家族ら、これら多くの人々が再び元の生活、人生を取り戻す事は容易ではない。これらの人々は何らかの援助を必要としており、その一つとして、自分の相手になってくれる人を求めているのではないだろうか。実際、末期がんで闘病中の父をもつある方から、年始にそのような相手として私を求める電子メールを頂いた。「…父の病気と向き合う中で抱えている問題がありますが、(属している団体の中で)ゆっくりとお話を聞いていただける方がおらず、一人で悩んでいました。電話で話を聞いて頂いたり、パストラルケアについて教えて頂けると幸いです…。」
ライフ・レビューと回想、追憶セラピー
「私は何のために生きているか、よく分からない」(50~60代男性/教師)とか「自死してはいけないのか」(70代男性/キリスト教司祭)というような問いかけを受けたことがある。このような方たちのスピリチュアルケアには、以下に述べる「ライフ・レビューとか回想法」のようなものが有効な場合があると思う。
「忙しい主治医や看護師が聴き出せないようなライフ・レビューを行います。その方がお話したい自分史、背景を伺い、患者さんと一緒にそれを肯定します。ライフ・レビュー・テラピーと申します。カルテに書き込み、スタッフ全員の共有の知識とします。」というメールをある医師から頂いた。 この医師はホスピスケアや高齢者施設などには人生の歩みを再認識する療法が行われていることを言っている。患者さんが自分の歩んできた人生について自由に話すことである。これによって患者さん自身が歩んできた人生を再認識し、評価することができる。自分が誰かによい影響を与えたか、自分の人生に意味や価値があったかなどを振り返り、その人生を肯定できるのはあくまでも患者さん自身である。
福岡カトリック教区福音化委員会福祉部の「ターミナルケアなどの支援・高齢者と独身者ケア 担当司祭責任者」に私が任命されたのをきっかけにして、「人生の完成への道程に寄り添う」プログラムを企画し、昨秋よりスタートした。 このプログラムに「ライフ・レビューと回想、追憶セラピー」は有用であり参考になると思う。
「ライフ・レビュー」とは信頼できる相手と交流しながら、自分のこれまでの人生を熟考し評価する行為である。自分の存在は意味や価値があったか、誰かに何らかのインパクトを与えられたか、それらを誰しも確認したいと思うだろう。その確認作業のための交流相手となれることは臨床パストラルケア/スピリチュアルケアの目標でもある。ライフ・レビューの相手になるための第一歩は自分自身のライフ・レビューである。そのために欠かせない要素は自分自身のアイデンティティを確認することである。
アイデンティティ 自分自身であること
自分は自分自身であるのか、それとも自分が果たしている何かの役割なのかを明確にし意識することは有意義である。ドイツには「鏡に映る自分の顔をみて、自分であるかどうかを自問自答せよ」という諺がある。日常生活で自分を紹介するとき、様々なアイデンティティを持つことに気づくだろう。アイデンティティと言っても、それは一つに限られず、下記のように一人ひとりにいくつかのアイデンティティがある。
・習慣や伝統によるアイデンティティ
私はもう何十年も前から日本式のクリスマスをしていない。イエス・キリストの誕生日は私にとってパーティーやお祭りのようなイベントではないからだ。このことをブログに書くと一人の医師から次の返事があった。「私も今年のクリスマスは、とてもお祝いできないような感じでした。12月25日は、息子とxx教会にごミサに行ったのですが、いわゆるクリスマス信者や、初めての人ばかりで途中で帰宅しました。 日本人も皆、何かに救いを求めているようです」と。
ちなみに、パキスタンではタリバンによる145名にものぼる学生虐殺事件が年末にあったことから、迫害されているにもかかわらずキリスト教会ではクリスマス祝いを静かに行ったという。
私が来日した当初、天皇陛下の誕生日やお正月には多くの家の前で”日の丸”を目にした。しかし昨年12月23日の祝日、近所で見た日の丸は一軒、お正月には二軒だけであった。これは以前から持っていたアイデンティティとしての印ではなく無意識の単純な慣習としてのものだったのではないか。自分で考えることなく、習慣や伝統を基にした生き方の中からはアイデンティティの基礎が生じにくい。
・市民としてのアイデンティティ
戸籍や住民票などには自分のアイデンティティとして名前、家族関係、生年月日、居住地などが記載され、証明を求められる。だが必ずしも身分証明書、資格認定書、卒業証書などによって自身が明確にされるわけではない。
・名刺やバッジ、制服によるアイデンティティ (名刺コンタクト 対 人間コンタクト)
もう50年以上前のこと。日本に到着して間もなく、仲間の一人が「日本では名刺がなければ相手にしてもらえない。自分は“無”であり馬鹿同様です」と言ったことが記憶に残っている。自分もそう感じて、滞日2年目に名刺を作った。現在、私の名刺に書かれている学位はすでに過去の事柄であり今の自分を証明するものではない。誰かに会うときに名刺の関係ではなく、人と人の関係として出会うには、現在の自分自身を示すことが不可欠であろう。
名刺と同様にバッジや制服、ブランド名などを自分自身のアイデンティティにすることは珍しくない。だが属している会社や団体などは自分自身の人格の代表(代わり)にはなれない。
・ITによるアイデンティティ
フェイスブックの「友達」・「いいね」の数、ブログへのアクセス数、メールやチャットなどが必ずしも自分自身を表現しているわけではない。また、インターネットやメール上では偽名や人格形成、キャラクターによって新しいアイデンティティを作り上げることもできる。そのバーチャルな関係によって、実際の出会い(人間関係)との断絶になる可能性がある。
・壁によって形成するアイデンティティ
他者との間に壁を作ることによって自己のアイデンティティを保つこと。「自分とは関係がない、同じ価値観、思想、趣味をもたない」などの条件によって、実際の出会いの前にすでに相手を評価し切り捨て、自分の価値観/趣味に同意しない人を敵のように評価することは人格の低さを示している。競争心や嫉妬、他者を切り捨てることなどによって自己の品位や思想を庇護しようとする行為は健全ではない。アイデンティティは他者との区別ではなく、あくまでも自己の問題である。
以上アイデンティティについていろいろ考察してきたが、心身ともに苦しんでいる人の交流相手となるためには、相手や自分が何によって「自己」を形成しているか、或いはしようとしているのか、それを意識することが大事である。
生きる意味 自己存在/人生の意味
自分自身として生きるためには、自己の存在起因と意味について考えることが手がかりとなるだろう。いま日本において毎日75人の人が自ら命を絶っている。このうち、ほとんどの人は9年間の義務教育のなかで“解決のできる”問題に取り組んだのではないだろうか? そして、一番大切な“解決のできない”問題についてはあまり勉強・研究する機会や刺激がなかったのではないか。何によって、何のために生きているのかという、自己の存在や意味についての教育が不十分であれば、答えのない困難や死について考えることは難しい。
生きること、苦しむこと、人生の不平等、死ぬことなど、それらの意味ついて自分で学びそれを絶えず追求することによって自分自身(=アイデンティティをもった人格)が他者の心のケアを少しさせてもらう資格が与えられるのではないか。
活かす人間関係
以前私が心臓手術を受けたとき、ひとりの男性患者がわたしに次のように問いかけた。彼:「あなたは司祭ですね?」(階級によるアイデンティティ)そこで
私:「はい」と答えた。
彼:「カトリックですね?」(団体によるアイデンティティ)と聞かれたので、
私:「はい」と答えた。さらに
彼:「キリスト者ですか?」(生きた信念によるアイデンティティ)と問いかけてきたので戸惑ってしまい、少し考えてから
私:「なりつつあるつもりです」と答えた。
この問いかけは“完全なキリスト者ですか”という辛辣な問いかけだったと思う。私は彼のはっきりした問いかけによって成長させてもらい、彼との本物の人間関係に恵まれた。
活かす人間関係は本当の出会い、心と心のつながりを要求する。人と会うとき、自分はどういうアイデンティティとして相対するのか? 医療従事者であれば医者/看護師としてその人と相対するか、それともひとりの人間として相対するか。私自身の場合について述べよう。私は人と会うとき、ある役割を持った人間としては会いたくないので、できるだけユニフォームは着ない。相手に「司祭」としてではなく一人の「人間」として会うことを望んでいるからである。司祭である私も、今出会っている人と同様に日々感情と希望、理想と現実の闘いの中にいるのである。しかしながら、”信仰”と”神学”について問われているときは、私は属しているローマカトリックの立場を質問者に明示してから、自分自身の経験や知識を述べる。そのために信仰の中心と伝統的な習慣を区別できるように努めている。
臨床パストラルケア=スピリチュアルケアは治す行為ではなく癒す行為である。
ある資格を持つ者であっても、
ある役割を持つ者であっても、
先生であっても、
まず自分自身という人格者である。
初めに
変えることのできない現実や思い通りにならない人生と直面している人は多い。昨年のエボラ出血熱の発生によって苦しんでいる人、イスラム国による虐殺とそこから逃れて難民となった人、昨年末に起こったエアーアジアの墜落事故によって家族や友人を失った人、また難病やアルツハイマーなどの認知症や末期がんで苦しんでいる人とその家族ら、これら多くの人々が再び元の生活、人生を取り戻す事は容易ではない。これらの人々は何らかの援助を必要としており、その一つとして、自分の相手になってくれる人を求めているのではないだろうか。実際、末期がんで闘病中の父をもつある方から、年始にそのような相手として私を求める電子メールを頂いた。「…父の病気と向き合う中で抱えている問題がありますが、(属している団体の中で)ゆっくりとお話を聞いていただける方がおらず、一人で悩んでいました。電話で話を聞いて頂いたり、パストラルケアについて教えて頂けると幸いです…。」
ライフ・レビューと回想、追憶セラピー
「私は何のために生きているか、よく分からない」(50~60代男性/教師)とか「自死してはいけないのか」(70代男性/キリスト教司祭)というような問いかけを受けたことがある。このような方たちのスピリチュアルケアには、以下に述べる「ライフ・レビューとか回想法」のようなものが有効な場合があると思う。
「忙しい主治医や看護師が聴き出せないようなライフ・レビューを行います。その方がお話したい自分史、背景を伺い、患者さんと一緒にそれを肯定します。ライフ・レビュー・テラピーと申します。カルテに書き込み、スタッフ全員の共有の知識とします。」というメールをある医師から頂いた。 この医師はホスピスケアや高齢者施設などには人生の歩みを再認識する療法が行われていることを言っている。患者さんが自分の歩んできた人生について自由に話すことである。これによって患者さん自身が歩んできた人生を再認識し、評価することができる。自分が誰かによい影響を与えたか、自分の人生に意味や価値があったかなどを振り返り、その人生を肯定できるのはあくまでも患者さん自身である。
福岡カトリック教区福音化委員会福祉部の「ターミナルケアなどの支援・高齢者と独身者ケア 担当司祭責任者」に私が任命されたのをきっかけにして、「人生の完成への道程に寄り添う」プログラムを企画し、昨秋よりスタートした。 このプログラムに「ライフ・レビューと回想、追憶セラピー」は有用であり参考になると思う。
「ライフ・レビュー」とは信頼できる相手と交流しながら、自分のこれまでの人生を熟考し評価する行為である。自分の存在は意味や価値があったか、誰かに何らかのインパクトを与えられたか、それらを誰しも確認したいと思うだろう。その確認作業のための交流相手となれることは臨床パストラルケア/スピリチュアルケアの目標でもある。ライフ・レビューの相手になるための第一歩は自分自身のライフ・レビューである。そのために欠かせない要素は自分自身のアイデンティティを確認することである。
アイデンティティ 自分自身であること
自分は自分自身であるのか、それとも自分が果たしている何かの役割なのかを明確にし意識することは有意義である。ドイツには「鏡に映る自分の顔をみて、自分であるかどうかを自問自答せよ」という諺がある。日常生活で自分を紹介するとき、様々なアイデンティティを持つことに気づくだろう。アイデンティティと言っても、それは一つに限られず、下記のように一人ひとりにいくつかのアイデンティティがある。
・習慣や伝統によるアイデンティティ
私はもう何十年も前から日本式のクリスマスをしていない。イエス・キリストの誕生日は私にとってパーティーやお祭りのようなイベントではないからだ。このことをブログに書くと一人の医師から次の返事があった。「私も今年のクリスマスは、とてもお祝いできないような感じでした。12月25日は、息子とxx教会にごミサに行ったのですが、いわゆるクリスマス信者や、初めての人ばかりで途中で帰宅しました。 日本人も皆、何かに救いを求めているようです」と。
ちなみに、パキスタンではタリバンによる145名にものぼる学生虐殺事件が年末にあったことから、迫害されているにもかかわらずキリスト教会ではクリスマス祝いを静かに行ったという。
私が来日した当初、天皇陛下の誕生日やお正月には多くの家の前で”日の丸”を目にした。しかし昨年12月23日の祝日、近所で見た日の丸は一軒、お正月には二軒だけであった。これは以前から持っていたアイデンティティとしての印ではなく無意識の単純な慣習としてのものだったのではないか。自分で考えることなく、習慣や伝統を基にした生き方の中からはアイデンティティの基礎が生じにくい。
・市民としてのアイデンティティ
戸籍や住民票などには自分のアイデンティティとして名前、家族関係、生年月日、居住地などが記載され、証明を求められる。だが必ずしも身分証明書、資格認定書、卒業証書などによって自身が明確にされるわけではない。
・名刺やバッジ、制服によるアイデンティティ (名刺コンタクト 対 人間コンタクト)
もう50年以上前のこと。日本に到着して間もなく、仲間の一人が「日本では名刺がなければ相手にしてもらえない。自分は“無”であり馬鹿同様です」と言ったことが記憶に残っている。自分もそう感じて、滞日2年目に名刺を作った。現在、私の名刺に書かれている学位はすでに過去の事柄であり今の自分を証明するものではない。誰かに会うときに名刺の関係ではなく、人と人の関係として出会うには、現在の自分自身を示すことが不可欠であろう。
名刺と同様にバッジや制服、ブランド名などを自分自身のアイデンティティにすることは珍しくない。だが属している会社や団体などは自分自身の人格の代表(代わり)にはなれない。
・ITによるアイデンティティ
フェイスブックの「友達」・「いいね」の数、ブログへのアクセス数、メールやチャットなどが必ずしも自分自身を表現しているわけではない。また、インターネットやメール上では偽名や人格形成、キャラクターによって新しいアイデンティティを作り上げることもできる。そのバーチャルな関係によって、実際の出会い(人間関係)との断絶になる可能性がある。
・壁によって形成するアイデンティティ
他者との間に壁を作ることによって自己のアイデンティティを保つこと。「自分とは関係がない、同じ価値観、思想、趣味をもたない」などの条件によって、実際の出会いの前にすでに相手を評価し切り捨て、自分の価値観/趣味に同意しない人を敵のように評価することは人格の低さを示している。競争心や嫉妬、他者を切り捨てることなどによって自己の品位や思想を庇護しようとする行為は健全ではない。アイデンティティは他者との区別ではなく、あくまでも自己の問題である。
以上アイデンティティについていろいろ考察してきたが、心身ともに苦しんでいる人の交流相手となるためには、相手や自分が何によって「自己」を形成しているか、或いはしようとしているのか、それを意識することが大事である。
生きる意味 自己存在/人生の意味
自分自身として生きるためには、自己の存在起因と意味について考えることが手がかりとなるだろう。いま日本において毎日75人の人が自ら命を絶っている。このうち、ほとんどの人は9年間の義務教育のなかで“解決のできる”問題に取り組んだのではないだろうか? そして、一番大切な“解決のできない”問題についてはあまり勉強・研究する機会や刺激がなかったのではないか。何によって、何のために生きているのかという、自己の存在や意味についての教育が不十分であれば、答えのない困難や死について考えることは難しい。
生きること、苦しむこと、人生の不平等、死ぬことなど、それらの意味ついて自分で学びそれを絶えず追求することによって自分自身(=アイデンティティをもった人格)が他者の心のケアを少しさせてもらう資格が与えられるのではないか。
活かす人間関係
以前私が心臓手術を受けたとき、ひとりの男性患者がわたしに次のように問いかけた。彼:「あなたは司祭ですね?」(階級によるアイデンティティ)そこで
私:「はい」と答えた。
彼:「カトリックですね?」(団体によるアイデンティティ)と聞かれたので、
私:「はい」と答えた。さらに
彼:「キリスト者ですか?」(生きた信念によるアイデンティティ)と問いかけてきたので戸惑ってしまい、少し考えてから
私:「なりつつあるつもりです」と答えた。
この問いかけは“完全なキリスト者ですか”という辛辣な問いかけだったと思う。私は彼のはっきりした問いかけによって成長させてもらい、彼との本物の人間関係に恵まれた。
活かす人間関係は本当の出会い、心と心のつながりを要求する。人と会うとき、自分はどういうアイデンティティとして相対するのか? 医療従事者であれば医者/看護師としてその人と相対するか、それともひとりの人間として相対するか。私自身の場合について述べよう。私は人と会うとき、ある役割を持った人間としては会いたくないので、できるだけユニフォームは着ない。相手に「司祭」としてではなく一人の「人間」として会うことを望んでいるからである。司祭である私も、今出会っている人と同様に日々感情と希望、理想と現実の闘いの中にいるのである。しかしながら、”信仰”と”神学”について問われているときは、私は属しているローマカトリックの立場を質問者に明示してから、自分自身の経験や知識を述べる。そのために信仰の中心と伝統的な習慣を区別できるように努めている。
臨床パストラルケア=スピリチュアルケアは治す行為ではなく癒す行為である。
ある資格を持つ者であっても、
ある役割を持つ者であっても、
先生であっても、
まず自分自身という人格者である。
by pastoralcare-jp
| 2015-02-03 11:17
| 一般 General