2012年 08月 21日
スピリチュアルケア誌56号 2012年7月 |
現実を生きること
本年6月に開催された、当センター「第15回 全国大会in鹿児島」は有意義なものであり、大会運営も大変円滑に進みました。 大会そのものは計画通りでありながらも、そこでの講演の内容は人生が計画通りには行かない現実を取り扱い、いわば好まざる人生を生きるために論じ合いました。「(2011年東日本)大震災に直面した(福島県立医科大学)医師の叫び~医療の限界~」「心を支えるターミナルケア」「臨床のアート~最後まで人間らしく~」の各講演は、わたしたち人間にとって好ましくない状況を生きる/生きられるドラマに焦点をあててくれました。天災や人災、必ず訪れる人生の最期(ホスピス)、アフリカのエイズや貧困、経済の課題をも抱えた人生の最期のステージである「死」など。
現実の人生は大会のようにプログラム通りには行きません。例えば、この記事を作成する際、いつものようにはコンピューターは動きませんでした。それに対するわたしの「どうしよう」「困った」「イライラする」というリアクションによって、望まない状況をスムーズには受容出来ないという事実を身近に体験させられました。
ドイツから講演のために来日したグロネマイアー氏は、講演において様々な人間のドラマを取り上げました。ところが、大会3日後“帰国予定チケット”が予定の日付ではなく、その日になっていることに気づき、大変困り慌てました。そのことによって8日間というわずかな滞在のうちの1日がチケット確認のために費やされてしまいました。さらに2日間の東京滞在中、電車内を流れる「人身事故」の案内とそれによるダイヤの乱れによって、ここでも厳しい現実を体験させられたのです。
ちなみにグロネマイアー氏自身が、何の問題もない人生を送っているのではなく、思う通りにならない現実を生きています。現在30歳になる一人息子が生まれた時に「この子は話すことも、歩くこともできない」という診断を受けました。幸いに歩くことも話すこともできるようになり、現在、ある資格を取る最終段階に入っています。息子の行動は非常に遅いが、笑うこと、笑わせることは得意であり、グロネマイアー氏は息子からゆっくり行動することを学んだと言います。
人生が思う通りにならないのは例外的なことではありません。ある母親のことです。授かった子どもは重いハンディーをもって生まれてきました。時間が経てば元気になると期待しましたが、5年経っても、10年経っても・・もうすでに30年以上経ちましたが子供の状況は変わらず、母親やヘルパーなしでは生きられません。母親にとっては日々の闘いです。この30数年間、子供のために尽くし工夫してきたこの母親に対するケアはどうすれば良いでしょう。母親の努力を具体的に評価することであり(例:子供にすてきな服を着せること)、母親の気持ちに、「分かります」とは簡単に言わないことでありましょう。
もう一人の母親。18年前に発病した娘が今初めて自発的に就職活動を始めました。学校を卒業した後、乗っていなかった自転車に挑戦し、面接も受けましたが、だめでした。だが母親として大きな喜びと力を得ました。苦労してきたにも関わらず、この母親の話し方は明るく、聞いている人々は誰もこの母親が長年苦労してきたことを想像できないでしょう。母親の希望と力になったのは聖書の1節でした。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」(マルコ4:26-28)
娘が就職活動を始めたことは「人が土に種を蒔いて…まず茎、次に穂」であったのです。
◆現実を生きるための内面的要素
思う通りにならない人生を生きるには「心・霊・魂」の機能や力を意識し、それを育成し結集する必要があります。以下にそのための要素をいくつか取り扱います。
・感謝する生活
感謝は“自分の命、人生、能力、自然などは自分の所有物ではなく与えられているもの”という考え方を持つことが基礎となります。自分の存在や、存在そのものは他力から頂いたものだと認め、その信条を生きることです。だが五体満足であったり、生活できる条件が揃っていたりすると、自然を含むすべては自分の支配下にあるものだと考えがちです。ところが病気や生活基盤など、今まで安心を与えてくれていたホームが急に揺れ始めると、自分のものとして捉えていた現実はそうではないのだと、目覚めるのは当然でありましょう。
呼吸できることをはじめとして、食べられることや寝られること、家族やホームがあること、国籍や平和などは自分に与えられている事柄であり、それらの事柄をプレゼントだと捉えることは感謝のベースになるものです。逆に何もかも自分の所有物だという考え方は感謝する心を育む機会を自らが潰していることになります。
空っぽの手のひらを差し出して「頂きます」の動作、合掌、お辞儀などは人間が絶えず頂いている存在であることを示してくれます。日々の命をはじめ、置かれた状況や健康などは基本的に与えられている要素であり、存在そのものが与えられているものなのです。
日常生活の中で固定され、安定していると思いがちなもの(例:建物、健康など)が実際は自分の一方的な思いこみであることを意識する必要があります。
感謝する生活には「すべての出来事に何かの意味がある」という信念が手助けになります。また、この信念自体も与えられている要素であることを言い添えます。
“当たり前は当たり前ではない”という心構えは、「感謝」を生きるためのベースになります。
・不思議がる心
長年日本に居住しているわたしにとって、誰かが文字を書いている姿を観察するたびに驚かされます。わたしから見て「ごちゃごちゃに見える文字」の中には意味があり、これを通して意思の伝達ができます。このことはわたしにいつも不思議な感覚を起こさせます。ちなみにアルファベット(A B C)には、漢字のように意味や概念が含まれていないので漢字と比べれば寂しい印象を与えます。
原始的な生活を送っているある民族のことを思い出します。一人の宣教師がその民族と共に暮らすようになり、彼らの言葉を自分に分かるよう書き留めました。そこに新たなもう一人の宣教師が訪れ、仲間が書き留めた紙を見ることによって、この宣教師も彼らの言葉を使うことができました。文字を持たない彼らにとって文字による伝達は不思議であったことでしょう。
ちなみに音符も音楽が得意ではない者にとってはただの記号ですが、音楽家にとっては意味のある生き生きしたものでしょう。初めてコンピューターで印刷をした時も手元で打ち込んだ文字が離れた場所にあるプリンターから出てきたことに非常に驚き感動しました。
日常の生活の中には多くの不思議が潜んでおり、それを発見し味わうことは内面性を育むきっかけとなります。
・信頼
天災、人災に限らず人生において絶対安全や安定がないことは自分自身でも分かり、また日々のマスメディアを通しても把握できます。健康状態の移り変わり、良いとされる健康法、薬物療法も時によって変化し、確実なものはありません。それにも関わらずその状況を生きるための知性と理性をもち、積極的に生きられる心の力を持つことは生きることに含まれる意味を信頼することでもあります。信頼そのものはでき上がったものではなく、日々の生活の中で築き、強めていくものです。人生を保障するもの(支え)は自分自身、思想家(孔子、マルクスなど)、運、超自然者(神)・・など人それぞれですが、それら自分が信じているものが実際の生活の移り変わりの中で、いざというときに自分の真の支えになるか/なったかを明確にするとよいでしょう。(例:震災直後は隣近所との支え合いが力になったが、それは時間とともに薄れ、その後は金銭や物質的要素に移り変わりやすい。)
・Do it yourself
マスメディアをはじめとして、読み物や教科書は、現実を他者の目で見て、他者が選択し、推薦した事柄であり、それらは他者の言葉/他者の得意な手段で伝達されたものであることを忘れてはならないでしょう。人生を成し遂げるためには、自分の目で見て、自分の耳で聴き、自分の頭で考え、信教と理性に基づく信念と目標を自ら持つことが大切です。小学校低学年までに受けた行動教育は、次第に価値観教育へと移り変わったと推測します。自分のことを自分で考えない者は「オウムのように真似事をする」人です。
わたしの親の教育指導は以下の通りでした。
子どもが、先生の
1.目をよく見て
2.話をよく聞く、だけではなく
3.聞いたことを理解できるように努力し
4.自分の考えや判断を持てるようにさせること
また、自分の考え(発見したこと)を発達させ、実現した後には、それらに対する自他の評価が大切です。周りからのフィードバックを認め、バランスを取りつつ、その中で自分が出来たこと、自分の良さを自らが発見し、自分をポジティブに評価する力を育むことを忘れてはなりません。
“Do it yourself”とは自分の能力に応じて、できるだけ自分のことを自分で考え、自分のことに責任をもって成し遂げようと努力することです。それは生きた共同体となり、互いを大切にし合う世界の実現に向けた動きに繋がります。 *1
・静けさ
厳しい現実を生きるには“自己と共に居るとき”“自己を反省するとき”が不可欠です。日々の勤めをまじめに、熱心に果たしても、自分と共に居るときがなければ自分のコアを失いがちです(例:働き蜂、会社人間)。
現在、わたし個人の問題は、つけっぱなしの携帯とインターネットです。携帯が鳴るのを待つこと(通話やメール)、インターネットで参考資料を探しながら横道に逸れ、定期的にニュースを見ることが日常となり、内面的な静けさやその大切な時間を損なう。自分を失えば、残るものもない!のだが。
◆最後に
・変化に富む多様な現実を生きるには、他者の目や意見より、自分の目と判断を、
・不安よりも信頼、
・外観を見るより ときに応じて不・思議がる心の目を味わうこと、
・他人や社会に任せるより“do it yourself”。
・不平においてもなお感謝する努力を、
・自然の乱用・乱伐・公害よりもECO、節電や節水に努力する、
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1: ウァルデマール・キッペス「心の力を活かすスピリチュアルケア」弓箭書院 2012年 11-12頁参照
ウァルデマール・キッペス
◆「現実について考えること」と「現実を生きること」の違い本年6月に開催された、当センター「第15回 全国大会in鹿児島」は有意義なものであり、大会運営も大変円滑に進みました。 大会そのものは計画通りでありながらも、そこでの講演の内容は人生が計画通りには行かない現実を取り扱い、いわば好まざる人生を生きるために論じ合いました。「(2011年東日本)大震災に直面した(福島県立医科大学)医師の叫び~医療の限界~」「心を支えるターミナルケア」「臨床のアート~最後まで人間らしく~」の各講演は、わたしたち人間にとって好ましくない状況を生きる/生きられるドラマに焦点をあててくれました。天災や人災、必ず訪れる人生の最期(ホスピス)、アフリカのエイズや貧困、経済の課題をも抱えた人生の最期のステージである「死」など。
現実の人生は大会のようにプログラム通りには行きません。例えば、この記事を作成する際、いつものようにはコンピューターは動きませんでした。それに対するわたしの「どうしよう」「困った」「イライラする」というリアクションによって、望まない状況をスムーズには受容出来ないという事実を身近に体験させられました。
ドイツから講演のために来日したグロネマイアー氏は、講演において様々な人間のドラマを取り上げました。ところが、大会3日後“帰国予定チケット”が予定の日付ではなく、その日になっていることに気づき、大変困り慌てました。そのことによって8日間というわずかな滞在のうちの1日がチケット確認のために費やされてしまいました。さらに2日間の東京滞在中、電車内を流れる「人身事故」の案内とそれによるダイヤの乱れによって、ここでも厳しい現実を体験させられたのです。
ちなみにグロネマイアー氏自身が、何の問題もない人生を送っているのではなく、思う通りにならない現実を生きています。現在30歳になる一人息子が生まれた時に「この子は話すことも、歩くこともできない」という診断を受けました。幸いに歩くことも話すこともできるようになり、現在、ある資格を取る最終段階に入っています。息子の行動は非常に遅いが、笑うこと、笑わせることは得意であり、グロネマイアー氏は息子からゆっくり行動することを学んだと言います。
人生が思う通りにならないのは例外的なことではありません。ある母親のことです。授かった子どもは重いハンディーをもって生まれてきました。時間が経てば元気になると期待しましたが、5年経っても、10年経っても・・もうすでに30年以上経ちましたが子供の状況は変わらず、母親やヘルパーなしでは生きられません。母親にとっては日々の闘いです。この30数年間、子供のために尽くし工夫してきたこの母親に対するケアはどうすれば良いでしょう。母親の努力を具体的に評価することであり(例:子供にすてきな服を着せること)、母親の気持ちに、「分かります」とは簡単に言わないことでありましょう。
もう一人の母親。18年前に発病した娘が今初めて自発的に就職活動を始めました。学校を卒業した後、乗っていなかった自転車に挑戦し、面接も受けましたが、だめでした。だが母親として大きな喜びと力を得ました。苦労してきたにも関わらず、この母親の話し方は明るく、聞いている人々は誰もこの母親が長年苦労してきたことを想像できないでしょう。母親の希望と力になったのは聖書の1節でした。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」(マルコ4:26-28)
娘が就職活動を始めたことは「人が土に種を蒔いて…まず茎、次に穂」であったのです。
◆現実を生きるための内面的要素
思う通りにならない人生を生きるには「心・霊・魂」の機能や力を意識し、それを育成し結集する必要があります。以下にそのための要素をいくつか取り扱います。
・感謝する生活
感謝は“自分の命、人生、能力、自然などは自分の所有物ではなく与えられているもの”という考え方を持つことが基礎となります。自分の存在や、存在そのものは他力から頂いたものだと認め、その信条を生きることです。だが五体満足であったり、生活できる条件が揃っていたりすると、自然を含むすべては自分の支配下にあるものだと考えがちです。ところが病気や生活基盤など、今まで安心を与えてくれていたホームが急に揺れ始めると、自分のものとして捉えていた現実はそうではないのだと、目覚めるのは当然でありましょう。
呼吸できることをはじめとして、食べられることや寝られること、家族やホームがあること、国籍や平和などは自分に与えられている事柄であり、それらの事柄をプレゼントだと捉えることは感謝のベースになるものです。逆に何もかも自分の所有物だという考え方は感謝する心を育む機会を自らが潰していることになります。
空っぽの手のひらを差し出して「頂きます」の動作、合掌、お辞儀などは人間が絶えず頂いている存在であることを示してくれます。日々の命をはじめ、置かれた状況や健康などは基本的に与えられている要素であり、存在そのものが与えられているものなのです。
日常生活の中で固定され、安定していると思いがちなもの(例:建物、健康など)が実際は自分の一方的な思いこみであることを意識する必要があります。
感謝する生活には「すべての出来事に何かの意味がある」という信念が手助けになります。また、この信念自体も与えられている要素であることを言い添えます。
“当たり前は当たり前ではない”という心構えは、「感謝」を生きるためのベースになります。
・不思議がる心
長年日本に居住しているわたしにとって、誰かが文字を書いている姿を観察するたびに驚かされます。わたしから見て「ごちゃごちゃに見える文字」の中には意味があり、これを通して意思の伝達ができます。このことはわたしにいつも不思議な感覚を起こさせます。ちなみにアルファベット(A B C)には、漢字のように意味や概念が含まれていないので漢字と比べれば寂しい印象を与えます。
原始的な生活を送っているある民族のことを思い出します。一人の宣教師がその民族と共に暮らすようになり、彼らの言葉を自分に分かるよう書き留めました。そこに新たなもう一人の宣教師が訪れ、仲間が書き留めた紙を見ることによって、この宣教師も彼らの言葉を使うことができました。文字を持たない彼らにとって文字による伝達は不思議であったことでしょう。
ちなみに音符も音楽が得意ではない者にとってはただの記号ですが、音楽家にとっては意味のある生き生きしたものでしょう。初めてコンピューターで印刷をした時も手元で打ち込んだ文字が離れた場所にあるプリンターから出てきたことに非常に驚き感動しました。
日常の生活の中には多くの不思議が潜んでおり、それを発見し味わうことは内面性を育むきっかけとなります。
・信頼
天災、人災に限らず人生において絶対安全や安定がないことは自分自身でも分かり、また日々のマスメディアを通しても把握できます。健康状態の移り変わり、良いとされる健康法、薬物療法も時によって変化し、確実なものはありません。それにも関わらずその状況を生きるための知性と理性をもち、積極的に生きられる心の力を持つことは生きることに含まれる意味を信頼することでもあります。信頼そのものはでき上がったものではなく、日々の生活の中で築き、強めていくものです。人生を保障するもの(支え)は自分自身、思想家(孔子、マルクスなど)、運、超自然者(神)・・など人それぞれですが、それら自分が信じているものが実際の生活の移り変わりの中で、いざというときに自分の真の支えになるか/なったかを明確にするとよいでしょう。(例:震災直後は隣近所との支え合いが力になったが、それは時間とともに薄れ、その後は金銭や物質的要素に移り変わりやすい。)
・Do it yourself
マスメディアをはじめとして、読み物や教科書は、現実を他者の目で見て、他者が選択し、推薦した事柄であり、それらは他者の言葉/他者の得意な手段で伝達されたものであることを忘れてはならないでしょう。人生を成し遂げるためには、自分の目で見て、自分の耳で聴き、自分の頭で考え、信教と理性に基づく信念と目標を自ら持つことが大切です。小学校低学年までに受けた行動教育は、次第に価値観教育へと移り変わったと推測します。自分のことを自分で考えない者は「オウムのように真似事をする」人です。
わたしの親の教育指導は以下の通りでした。
子どもが、先生の
1.目をよく見て
2.話をよく聞く、だけではなく
3.聞いたことを理解できるように努力し
4.自分の考えや判断を持てるようにさせること
また、自分の考え(発見したこと)を発達させ、実現した後には、それらに対する自他の評価が大切です。周りからのフィードバックを認め、バランスを取りつつ、その中で自分が出来たこと、自分の良さを自らが発見し、自分をポジティブに評価する力を育むことを忘れてはなりません。
“Do it yourself”とは自分の能力に応じて、できるだけ自分のことを自分で考え、自分のことに責任をもって成し遂げようと努力することです。それは生きた共同体となり、互いを大切にし合う世界の実現に向けた動きに繋がります。 *1
・静けさ
厳しい現実を生きるには“自己と共に居るとき”“自己を反省するとき”が不可欠です。日々の勤めをまじめに、熱心に果たしても、自分と共に居るときがなければ自分のコアを失いがちです(例:働き蜂、会社人間)。
現在、わたし個人の問題は、つけっぱなしの携帯とインターネットです。携帯が鳴るのを待つこと(通話やメール)、インターネットで参考資料を探しながら横道に逸れ、定期的にニュースを見ることが日常となり、内面的な静けさやその大切な時間を損なう。自分を失えば、残るものもない!のだが。
◆最後に
・変化に富む多様な現実を生きるには、他者の目や意見より、自分の目と判断を、
・不安よりも信頼、
・外観を見るより ときに応じて不・思議がる心の目を味わうこと、
・他人や社会に任せるより“do it yourself”。
・不平においてもなお感謝する努力を、
・自然の乱用・乱伐・公害よりもECO、節電や節水に努力する、
~~ 敬天愛人 ~~
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1: ウァルデマール・キッペス「心の力を活かすスピリチュアルケア」弓箭書院 2012年 11-12頁参照
by pastoralcare-jp
| 2012-08-21 16:37
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