2012年 05月 16日
スピリチュアルケア誌55号 2012年4月 |
希望をもたらす力
それでも人生にイエスと言う
ウァルデマール・キッペス
人生は思うとおりにならない。思うとおりにならないとき、「それでも人生にイエス」と言ってやり続けるかどうかは、個々人の反省、判断に任せる。思ったとおりにならなかったとき/ならないとき、やり続けるための動機、力、励ましを得るためには、まずその目標を与えてくれた元(悟りやインスピレーションなど)を明確にすれば有意義になる。こうした行為は自分の心・霊・魂のセルフケアの具体化にもなる。あることを実現させ達成しようとする時、それは自分にとってどういう意義があるのか。もし意義があるなら、それに対する努力、協力とは何であるかを、ほんの僅かでも見つけようとすることは自我意識や自信を強め、確信をももたらしてくれる。同時に自分のことを明確にしたときに発見したコツなどは、人生を納得して(闘って)生きようとする他者へ、必要に応じ、参考として提供できるし、次の一歩を踏み出すための助けになるような機会ともなる。
ある事を達成するためには、多くの時間や能力、労力を必要とする。苦労、達成感、欲求不満などをもたらすであろう企画を、単にやらなくてはならない年中行事の一つであるとでも感じたならば、それに伴う苦労は受け入れ難いだろう。しかし、その企画を、納得できる人生のために少しでも有益なヒントや希望を生み出す意義ある企画として考えるならば苦労に値するのではないだろうか。心・霊・魂の力は日々の生活に意味や喜びを与え、忠実さを育む基であることを再確認させてもらえる場としてそのような企画の遂行を捉えたい。うまくいくかどうかではなく、その目的に対する意識化が中心課題である。
1.スピリチュアルケア 信念 対 単純な運動
意義のある納得できる人生を送るには五体満足、飲食やeventだけでは足りないだろう。忠実、約束を守ること、自他を育み活かすこと、助け合うこと、困難の中でも生きることなどは人間らしい生き方ではないだろうか。であれば、心・霊・魂の存在とその重要性を意識し、それらを育むことが人生で一番大切なことだと考える。 言い換えれば、心・霊・魂(スピリット)なくしては人間だとは言いにくい。日々の生活で問われている心・霊・魂の重要性を自信と確信をもって追求し、それを強く社会に訴える行為もスピリチュアルケアである(例:義務教育に心・霊・魂の育成)。スピリチュアルケアは単純な運動ではなく、信念に基づいている行為である。そのような意味で、スピリチュアルケア研究会、スピリチュアルケア学会、あるいは臨床パストラル教育研究センターの研修会などはスピリチュアルケアのリニューアルの機会でもある。
2.心・霊・魂の育成
ガンジーの生き方を思い出す。ガンジーの内面的な確信は「真理は勝つ」であり、「真理」を一生追求した。人間の根本的な権利は自主決定権利であり、人間は誰かの奴隷(機械)ではないこと、この真理がガンジーの信念を形成した要素であった。ガンジーによるイギリス支配からのインド独立活動は単なる運動ではなく、心・霊・魂に基づいている行為であった。テロや暴力ではなく、真理を追求することはガンジーの「非暴力」の土台とパワーであった。
ガンジーは真理を何によって(例:悟り、インスピレーション、教育)発見し、自己モットーにしたかは分からない。だが、ガンジーの真理を追求する方法は内面性の育成のヒントになる。ガンジーのカースト制度*1 に対する真理の実行(=心)は「アーシュラム」での共同生活で示した。独立に向かって、様々な運動を起こす前に、まず「真理の光」を求めた。この内面的な光が燃え上がるまでは日常を沈黙と断食のうちに過ごし、真理の光が燃えだしたとき運動に移った。そのとき運動に参加する人たちに「この運動のために命をかけなければ、参加するな。もし血を流す必要があれば、それはわたし(たち)の血でなければならない」と述べた。ガンジーの運動は無意識な衝動や衝撃からではなく、内面性に基づいたものであった。ちなみに、現在のインド国内でその心(精神)が薄れていても、ガンジーの狙いと方法は心・霊・魂のパワーを裏付けられる企てであったと言えよう。心の動きの原点を自ら意識し育成することは確信をもって真理を追求するための援助となる。
日常での心・霊・魂の現れ
他者に対する態度には日常の心・霊・魂の生きている度合いが現れるだろう。他者を相手にするか、それとも物・機械(機能を果たすもの)として考えているかは挨拶によって明らかになる。挨拶とは「他者の存在を認めること」と定義する。大勢の人がいるところや通り過ぎるところでは挨拶しないのは当然であるかもしれないが、人出の中で一人か二人にアイコンタクトやお辞儀できないことはない。人間関係は挨拶から始まる。日常の「こんにちは。元気ですか」「いいお天気ですね」「お変わりがありませんか」のようなフレーズは取っ掛かりとしてはよい。しかし、それらはあくまでも人間同士が真に出会うための出発点に過ぎないことを意識すればよい。その後の会話が人の関心事を表現する。そこで身体的健康(薬物、診察、検査)や食べ物、経済や社会に対する不満だけが話題の中心になれば、心・霊・魂の存在、その健康を意識していないのではないか。心・霊・魂が意識に登っているならそれらは自然に話題になるであろう。「梅の花」「桜が満開」「ひばりが鳴いている」「日が長くなった」のような不思議さを話題にする行為も心を伝える。また、無言の出会いであっても、他者への尊敬、感謝とは心・霊・魂からの表現を通して(食事前後の合掌、人に対する態度や目つきなど)伝え合うことができる。
「今日の目標」「困難を生きるコツ」「ご自分にとって心とは」「歳を取ることをどう捉えていますか(人生観)」などの問いかけは、自分自身と他者の心・霊・魂を意識させ、内面的な生き方への援助になるのではないだろうか。しかしこのとき、注意や他者を試すためにこのような問いかけをすることは不適切だと考える。
日常会話は個人の心・霊・魂に対する関心度合いや人間像を表していることが多い。
3.計画的でない現実
この記事を作成しながら、新幹線で京都から九州に向かっていたとき(4月3日)のこと。 京都から3時間半、暴風の影響で電車が広島で止まり、そこから進まなかった。(結果として広島で一泊した。)そのときの「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と繰り返し謝る車内アナウンスに考えさせられた。というのは新幹線にも限界がある。それは人間の過失ではなく、自然に対する現在の限界であり、人間(JR)のせいではないことを明確に表現して欲しかった。例えば「わたしたち人間の支配が及ばない自然の力ですので、今の状況をできるだけスムーズに解決できるように皆様のご協力をお願いします」のように言えないか。人間が万能ではないことに気づかせてもらえるような現実の体験は、内面への刺激になるのではないか。
人生が思うとおりにならないのは例外的なことではない。変えられることもあれば変えられないこともある。この事実を消極的、運命論的、仕方がなく認めるのではなく、理性をもって認めることは心・霊・魂のパワーを要求し、そしてそのパワーの有無を明確にしてくれる。自然に対する態度は場合によって社会制度に対する態度として要求されるときもある。現代のテロは、人間社会の成熟を理性をもって目指すことの困難さ、無力さを示しているときが多いと思われる。というのは人間に考える自由があるかぎり、皆が同じ考え方をもっていないのは当然である。この事実は家庭内の親子関係でもうすでに実感できるので、国会での議論、外交交渉や国連での議論の様子などを調べるまでもなく明らかなことである。こうした現実問題においてこそ、心・霊・魂のパワーの結集が急を要すると思われる。
4.現実の改善に先立つ思考の改善
上述したように運命論(仕方がない)や暴力・テロは理想的な生き方を生み出さない。また暴風に対してJRの役員を攻撃するのはナンセンスであろう。そして家族や人間社会を変えようと努力すれば理性に基づく計画・プランが不可欠な条件になるであろう。
もう10年間続いているアフガニスタン戦争はそれを物語っている。アフガニスタン問題は経済の問題より心・霊・魂、つまり信条と宗教に基づいた価値観の問題であろう。2002年10月7日にはじまった戦争は2001年9月11日のニューヨークのワールドトレードセンターへの攻撃に対する反応であった。当時、タリバン政権の下で、アフガニスタンはアル・カイダのベースとして考えられたからである。アメリカはタリバン政権を民主主義の諸原理と交換する計画を持ちましたが、10年後の今ではそれは間違った推測だったと言える。アル・カイダやタリバンの狙いは経済的な繁栄の制度やリベラルイスラム教国家ではなく、原理主義イスラム教国家を理想としてもっているようである。アフガン戦争の中心課題は国の経済機構、有機的組織ではなく信仰(宗教)、つまり心・霊・魂のもの(健康)である。
ちなみに現代の欧米諸国や日本はアフガニスタンと正反対のように思われる。多くの国々では内面的な健康よりも国の経済を優先しているのではないか。
現実の改善を目指しているなら理性による計画が必要である。その計画は内面性にウェイトをおけばスムーズに実現できなくても将来性がある。今、ミャンマーのスーチー師のことを思い出す。本人は1990年の選挙で勝利してから15年間自宅軟禁され、今年4月1日の国会補欠選挙で野党・国民民主連盟が圧勝した。「1962年以降、国軍中心の支配が続く祖国に民衆主義を打ち立てたいと願う」と師が言う。それは信念の強さの顕れであろう。「自分の人生を犠牲にしてわたしたちのために尽くしている。だからわたしたちも応えなければならない」とスーチー師を支持する人々は言う。
5.スピリチュアルケアへの各人の信念
だれだれの意見や思考を述べる人ではなく、心・霊・魂のケアに関する自己の信念を持って生きる人が望ましい。心・霊・魂のケアの必要性、育成や普及はWHOの宣言によるものではなく、各人の純粋な確信に基づいているものであってほしい。心・霊・魂の育成とそのケアは(ホスピス運動を含めて)何かの運動ではなく、人間の存在になくてはならない要素であり、その育成とケアのために苦労があるのは当たり前である。何かの善いものを追求するなら、必ずと言ってよいくらい困難や反対運動に直面する。このことは人生を意識的に歩めば自ずと分かってくることであらう。困難に出会ったときに「それでも人生にイエスと言う」のこそ、生きている心・霊・魂を反映している姿だと思う。
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1: カーストは古い起源を持つ制度である。現在は1950年に制定された憲法で全面禁止が明記されているものの、実際には人種差別的にインド社会に深く根付いている。
by pastoralcare-jp
| 2012-05-16 14:44
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