2009年 11月 07日
スピリチュアルケア誌45号 2009年10月 |
<2009年>
スピリチュアルケアにおける信仰・信条や宗教
ドイツの初めてのエイズホスピス「ハウスマリアフリーデン」の施設長T・ケルコヴィウス氏は今回の日本での講演の中で、サンフランシスコにある禅ホスピスのフランク・オスタセスキが宗教的な援助 を患者に行う時に問う4つのポイントを取り上げた。 即ち、
1.あなたはスピリチュアル(霊的)な(=宗教的な)信条を持ち、宗教団体に属していますか? 2.その団体はあなたに援助と支援を与えますか?
3.あなたの病気はあなたのスピリチュアル(霊的)な信条からいうとあなたにとってどのような意味を持っていますか?
4.あなたは、私たちがあなたのスピリチュアル(霊的)な信条をどのように治療に取り入れることを望みますか?
現在の日本社会で、このような問いかけをすることが可能であろうか? 日本においてこのような問いかけは特定の宗教に属する医療施設においてのみ宗教家が出来ることではないだろうか。日本で私は臨床パストラルケアの研修参加者や病院内のスタッフに対してこうした問いかけはできないし、ましてやそこに入院している一般の患者さんに対しては出来ない。 しかしながら、いろいろな困難殊に病気の時にこそ「信仰」の存在価値が問われるのだと考えている。
信仰・宗教に対してアレルギーを持っている人にはこうしたケアができないだけではなく、病んでいる方のケアが出来ないことを強調したい。つまり、信仰や宗教に対してアレルギーもしくは抵抗感を持っているケアワーカーは信仰者のケアはできないと言うより信仰者の生き方の妨げにさえなると思う。
末期がん患者の人間としての成長のきっかけになった信仰の援助による最近の事例を次に述べてみたい。
1.末期がんにある40代の女医のAさん。 援助者(ケアワーカー)に信頼感を持てたことによって人間同士としての連帯感も得、そして神からの許しを得て旅立たれた。
わたしはAさんが旅立つ一ヶ月前に初めて出会った。Aさんがキリスト者になることを希望し、入信したときであった。 そのときのわたしに対するAさんの視線が記憶に残っている。「あなた(のやること、言うこと)を信頼できるかしら」と問うようで、Aさんに試されているように感じたが、eye contactを持ち続けた。2回目と最後の出会いはAさんが旅立たれる一週間前であった。Aさんはベッドにまっすぐに寝て、声は非常に弱いが、わたしにじっと視線を向けた。再び、わたしは信頼できる人だろうかと試されたような感じがした。 そのときの会話(以下Hは私)。
H 「Gさんのために祈りたいのです。そのためにAさんと心を合わせたいのです。そのためにAさんに『何のために祈って欲しい』と聞きたいのです」
A 「皆がしあわせになるように」
H 「しあわせは何でしょうか」
A 「お金とか学問ではない」
しばらくしてから付き添いの人がAさんに「しあわせを体験しましたか」と尋ねるとAさんは「はい」と答えた。
小さいときから兄弟のものまで欲しがってきたAさんにとって、お金と学問はしあわせを築く要素であったのではないだろうか。だが、重病を生きる今、それらはしあわせの起因になれないことを発見したに違いない。それと、自分だけではなく、“皆”がしあわせになるように願えた成長は、病による教訓、閃き、解放などに基づくもので、薬物や治療によらない深い内面性、いわばスピリットパワーの表れであろう。
「洗礼を受けた後の変化は大きかったですね。人は最後まで成長するのだと思いました」とAさんのお兄さんがお別れの時に言われたことばも信仰に基づいたスピリチュアルケアの力を評価してくれている。
2.60代のがん末期の女性(Bさん)。 Bさんはホスピスに入院してからキリスト教に触れて、受洗を希望された。わたしがBさんの洗礼を行わせてもらった時が最初の出会いである。そのときわたしは寝たきりの彼女に「何のために祈って欲しいのですか?」と尋ねると、彼女は「力があるように」と答えた。そのように祈った。(しかし後で考えてみると、その時わたくしが「どういう力ですか?」と尋ねていたとしたら、もっと適切な祈りになったのではないかと思う。)
何十年の結婚生活において苦労してきた後で、今受洗して、真っ直ぐに寝ているBさんが、「今が人生で最高にしあわせな時です」と言った。 そして自分の夫について「一番力になってくれている人は主人です」と付き添いの方に言い出した。そのときベッドのそばに立っていたご主人が「力をもらいます。…今までこういうことを一度も聞いたことがない。…こういうところ(ホスピス)でなければありえなかったでしょう。〇〇病院ではこうした体験はできなかったと思います」と感動しながら言われた言葉が強く印象に残っている。わたしにとって“末期の弱者”が健者を内面的に癒す事実を目撃する貴重な体験になった!
40代のAさんと60代のBさんには、一つの共通点があった。“末期状態でのしあわせ”という言葉がわたしに強く響いた。Aさんが「皆が幸せでありますように」と言うと、わたしはすぐに「しあわせなら手をたたこう」と歌い出したくなった。だがその時の(重い)雰囲気を壊したくなかった。時間が経つにつれて空気が軽くなり「しあわせなら手をたたこう」と歌いましょうと提案し、患者さんと病室にいる人たちとくつろいだ気持ちで歌った。Aさんは手をたたき、足で布団の上げ、ウィンクを慣れた様子で非常に上手にしてくれた。訪室しているわたしたちは驚いた。「ほら、手をたたいている! ほら、足が動いている!」まわりに喜びと驚きの声!
Bさんの訪問の最後でも同様に「しあわせなら手をたたこう」と歌い、Bさんの手、足、まぶたの動き! スピリットによる身体的、心理的(気持ち)の変化のすばらしさ!
3.今年初めのこと。わたしは10数年前に禅修行をしてきたCさんの説教を一回聞いたことがあり、それは新鮮なものとして印象に残っていた。 その後Cさんと個人的な関係はもっていなかった。 最近Cさんが末期がんで入院していることがわかり、訪問させてもらった。鼻に酸素吸入管、仰向けで寝ているCさんは弱ってやせていた。 わたしは「よろしいのですか」と聞き、Cさんは「はいどうぞ」と小さい声でほほえみ迎えてくれた。
時刻は19時ごろであったが、Cさんは昼頃と思っていた。弱っているCさんは、わたしに心地の良い椅子に座るように手で合図してくれた。わたしが「ただそばに座っていて良いのですか」と聞くとCさんは「はい」と答えた。 Cさんが「幾つですか」とわたしに尋ね、わたしが「78歳」と答えると、Cさんの顔がくるしくなった。(65歳だったCさんは不公平であることを感じたのではないかとわたしは想像した…)。静かに側に座らせてもらったわたしはしばらくしてから「歌っていいのですか」と聞くと、Cさんは「はい」と答えた。それで「キリエ」(グレゴリアン聖歌)や「amazing grace」のメロディーに「イエス」「感謝」「父(なる神)」「信頼」「聖霊」「平安」のような単語を入れてゆっくりと小さい声で歌い続けた。わたしは歌い終わるとCさんは背を伸ばし、嬉しそうに輝いている顔で拍手してくれた。わたしにとって初めての体験であった。
その後わたしはCさんに「祝福してください」と願うと、Cさんはつらくて厳しい顔を見せ祝福してくれなかった。(その原因はCさんの信仰、神との関係ではないかとわたしは想像した。)
わたしが「力は何ですか」と聞くと、Cさんは「シスター(Cさんの実際の姉妹)」と答えたのも印象に残っている。「神」「信仰」「教会」などのような事柄ではなかった…! 本人とその姉妹の信仰/宗教は同じものではなかった。
因みに、翌日の訪問の際、Cさんとの出会いは無言であったことを念のために言い添える。
以上の出会いから学んだ/体験したことは次のとおりである。
・信仰・信条はテーマとして患者やその周囲の人に提供されること
・信仰・信条は患者自身ばかりでなく患者に関わっている人にも影響を与えられること
・その影響は同じではないこと
・そのテーマはスピリチュアルケア・ワーカーの助けになることもあれば、内面的な苦痛の元にもなることもある、と考えることができる。
スピリチュアルケアにおける信仰・信条や宗教
W・キッペス
ドイツの初めてのエイズホスピス「ハウスマリアフリーデン」の施設長T・ケルコヴィウス氏は今回の日本での講演の中で、サンフランシスコにある禅ホスピスのフランク・オスタセスキが宗教的な援助 を患者に行う時に問う4つのポイントを取り上げた。 即ち、
1.あなたはスピリチュアル(霊的)な(=宗教的な)信条を持ち、宗教団体に属していますか? 2.その団体はあなたに援助と支援を与えますか?
3.あなたの病気はあなたのスピリチュアル(霊的)な信条からいうとあなたにとってどのような意味を持っていますか?
4.あなたは、私たちがあなたのスピリチュアル(霊的)な信条をどのように治療に取り入れることを望みますか?
福岡講演でのケルコビウス氏
現在の日本社会で、このような問いかけをすることが可能であろうか? 日本においてこのような問いかけは特定の宗教に属する医療施設においてのみ宗教家が出来ることではないだろうか。日本で私は臨床パストラルケアの研修参加者や病院内のスタッフに対してこうした問いかけはできないし、ましてやそこに入院している一般の患者さんに対しては出来ない。 しかしながら、いろいろな困難殊に病気の時にこそ「信仰」の存在価値が問われるのだと考えている。
信仰・宗教に対してアレルギーを持っている人にはこうしたケアができないだけではなく、病んでいる方のケアが出来ないことを強調したい。つまり、信仰や宗教に対してアレルギーもしくは抵抗感を持っているケアワーカーは信仰者のケアはできないと言うより信仰者の生き方の妨げにさえなると思う。
末期がん患者の人間としての成長のきっかけになった信仰の援助による最近の事例を次に述べてみたい。
1.末期がんにある40代の女医のAさん。 援助者(ケアワーカー)に信頼感を持てたことによって人間同士としての連帯感も得、そして神からの許しを得て旅立たれた。
わたしはAさんが旅立つ一ヶ月前に初めて出会った。Aさんがキリスト者になることを希望し、入信したときであった。 そのときのわたしに対するAさんの視線が記憶に残っている。「あなた(のやること、言うこと)を信頼できるかしら」と問うようで、Aさんに試されているように感じたが、eye contactを持ち続けた。2回目と最後の出会いはAさんが旅立たれる一週間前であった。Aさんはベッドにまっすぐに寝て、声は非常に弱いが、わたしにじっと視線を向けた。再び、わたしは信頼できる人だろうかと試されたような感じがした。 そのときの会話(以下Hは私)。
H 「Gさんのために祈りたいのです。そのためにAさんと心を合わせたいのです。そのためにAさんに『何のために祈って欲しい』と聞きたいのです」
A 「皆がしあわせになるように」
H 「しあわせは何でしょうか」
A 「お金とか学問ではない」
しばらくしてから付き添いの人がAさんに「しあわせを体験しましたか」と尋ねるとAさんは「はい」と答えた。
小さいときから兄弟のものまで欲しがってきたAさんにとって、お金と学問はしあわせを築く要素であったのではないだろうか。だが、重病を生きる今、それらはしあわせの起因になれないことを発見したに違いない。それと、自分だけではなく、“皆”がしあわせになるように願えた成長は、病による教訓、閃き、解放などに基づくもので、薬物や治療によらない深い内面性、いわばスピリットパワーの表れであろう。
「洗礼を受けた後の変化は大きかったですね。人は最後まで成長するのだと思いました」とAさんのお兄さんがお別れの時に言われたことばも信仰に基づいたスピリチュアルケアの力を評価してくれている。
2.60代のがん末期の女性(Bさん)。 Bさんはホスピスに入院してからキリスト教に触れて、受洗を希望された。わたしがBさんの洗礼を行わせてもらった時が最初の出会いである。そのときわたしは寝たきりの彼女に「何のために祈って欲しいのですか?」と尋ねると、彼女は「力があるように」と答えた。そのように祈った。(しかし後で考えてみると、その時わたくしが「どういう力ですか?」と尋ねていたとしたら、もっと適切な祈りになったのではないかと思う。)
何十年の結婚生活において苦労してきた後で、今受洗して、真っ直ぐに寝ているBさんが、「今が人生で最高にしあわせな時です」と言った。 そして自分の夫について「一番力になってくれている人は主人です」と付き添いの方に言い出した。そのときベッドのそばに立っていたご主人が「力をもらいます。…今までこういうことを一度も聞いたことがない。…こういうところ(ホスピス)でなければありえなかったでしょう。〇〇病院ではこうした体験はできなかったと思います」と感動しながら言われた言葉が強く印象に残っている。わたしにとって“末期の弱者”が健者を内面的に癒す事実を目撃する貴重な体験になった!
40代のAさんと60代のBさんには、一つの共通点があった。“末期状態でのしあわせ”という言葉がわたしに強く響いた。Aさんが「皆が幸せでありますように」と言うと、わたしはすぐに「しあわせなら手をたたこう」と歌い出したくなった。だがその時の(重い)雰囲気を壊したくなかった。時間が経つにつれて空気が軽くなり「しあわせなら手をたたこう」と歌いましょうと提案し、患者さんと病室にいる人たちとくつろいだ気持ちで歌った。Aさんは手をたたき、足で布団の上げ、ウィンクを慣れた様子で非常に上手にしてくれた。訪室しているわたしたちは驚いた。「ほら、手をたたいている! ほら、足が動いている!」まわりに喜びと驚きの声!
Bさんの訪問の最後でも同様に「しあわせなら手をたたこう」と歌い、Bさんの手、足、まぶたの動き! スピリットによる身体的、心理的(気持ち)の変化のすばらしさ!
3.今年初めのこと。わたしは10数年前に禅修行をしてきたCさんの説教を一回聞いたことがあり、それは新鮮なものとして印象に残っていた。 その後Cさんと個人的な関係はもっていなかった。 最近Cさんが末期がんで入院していることがわかり、訪問させてもらった。鼻に酸素吸入管、仰向けで寝ているCさんは弱ってやせていた。 わたしは「よろしいのですか」と聞き、Cさんは「はいどうぞ」と小さい声でほほえみ迎えてくれた。
時刻は19時ごろであったが、Cさんは昼頃と思っていた。弱っているCさんは、わたしに心地の良い椅子に座るように手で合図してくれた。わたしが「ただそばに座っていて良いのですか」と聞くとCさんは「はい」と答えた。 Cさんが「幾つですか」とわたしに尋ね、わたしが「78歳」と答えると、Cさんの顔がくるしくなった。(65歳だったCさんは不公平であることを感じたのではないかとわたしは想像した…)。静かに側に座らせてもらったわたしはしばらくしてから「歌っていいのですか」と聞くと、Cさんは「はい」と答えた。それで「キリエ」(グレゴリアン聖歌)や「amazing grace」のメロディーに「イエス」「感謝」「父(なる神)」「信頼」「聖霊」「平安」のような単語を入れてゆっくりと小さい声で歌い続けた。わたしは歌い終わるとCさんは背を伸ばし、嬉しそうに輝いている顔で拍手してくれた。わたしにとって初めての体験であった。
その後わたしはCさんに「祝福してください」と願うと、Cさんはつらくて厳しい顔を見せ祝福してくれなかった。(その原因はCさんの信仰、神との関係ではないかとわたしは想像した。)
わたしが「力は何ですか」と聞くと、Cさんは「シスター(Cさんの実際の姉妹)」と答えたのも印象に残っている。「神」「信仰」「教会」などのような事柄ではなかった…! 本人とその姉妹の信仰/宗教は同じものではなかった。
因みに、翌日の訪問の際、Cさんとの出会いは無言であったことを念のために言い添える。
以上の出会いから学んだ/体験したことは次のとおりである。
・信仰・信条はテーマとして患者やその周囲の人に提供されること
・信仰・信条は患者自身ばかりでなく患者に関わっている人にも影響を与えられること
・その影響は同じではないこと
・そのテーマはスピリチュアルケア・ワーカーの助けになることもあれば、内面的な苦痛の元にもなることもある、と考えることができる。
<スピリチュアルケア誌45号より>
by pastoralcare-jp
| 2009-11-07 11:59
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