生きる意味 |
生きる意味
生きるとは
自分に生きる意味があれば心も頭(考え方)も落ち着く。特に自分の生き方に困難が生じたときには「生きるとは?」「生きる意味とは何であるか」を考える。さらに「自分はどうして死ななければならないのか」、「自分が死ななければならないなら、生きることに何の意味があるか」。「なぜ死ぬのか」、「死ぬ意味は何か分からない」。「生きるのが一日長くても遅くても人生に影響を与えるだろうか」。「人生の最期まで、無理矢理に生きる事は果たして意味があるかどうか」。「死ななければならないなら、生きる意味は何であるのか。」を考えるのではないか。だが健康であっても病気であっても、それはその本人でなければ分からない状態であることを忘れないように。
初めから生きることは自分の希望でなかったなら、繰り返し言えば、「生きる意味」、「死ぬ意味」、「病気の意味」をどのように見つけられるだろうか。見つけることは健康な人にはできないことであろう。ちなみに「旅立たれた人の笑顔とは?(平安な顔は例外ではない)」。もし今の自分の状況が難しくなったときには、生きる力はどう得られるのか。健康な人間には分からないことである。したがって、健康な人の想像を中心課題にしないこと。というのは生きる希望をなくすかもしれないからである。生きることの意味を見つけるのは、らせん状に例えられることがある。だがそれは果たして意味があるか。最後が困難であるなら、なお誰が生きたいと考えるだろうか。死に臨んでいる人の気持ちは、健康である私たちには分からない。見守っている人々にとって旅立つ人の状況は分からないからである。体験したことがないからだ。
まして、はじめから生きることを望まなかった場合、そこに生きる意味を見つけられないだろう。生きる意味が分からずには死ぬことの意味も分からないはずである。また、生きる意味、死ぬ意味を見つけ、納得できることは可能だろうか。さらに困難をかかえて生きることに何の意味があるか発見できるだろうか。死ぬ意味は何か。
結局、何かの意味づけができなければ失望、もしかすれば自死を選ぶかもしれない。したがって自分の生きる力を発見する努力は不可欠な条件になる。
スピリチュアリティ
上述した自分の生きる力を発見するためには、自分に授けられた生き方を受け入れること。すなわちポジティブなもの、研究する価値のあるものとして理解する課題になることを意識すべきであろう。そして育てていくこと。それが自分にとって生きるために特別なものでなくても、発見しようとする努力そのものはスピリチュアリティ(スピリチュアルケア)と言える。
スピリチュアリティは生きる意味を見つけさせてくれることでもある。体験したことがないから内容は分からない(負けて勝つ)。だが、最終的に生きていることが何であるか、体験しなければ私たちには分からないことだからである。
それは信じるしかないことである(殉教者)。生きる意味があるかどうかは、受け入れようとする人にしか分からないからである。分からないことであるなら勝手な解釈はしないこと。イエスを信ずる人々の中心課題は、イエスが十字架上で殺されたことである。だがイエスは殺されていても、生きておられる。それはイエスを信じる人々にとっては毎日の課題である。イエスが殺されたことは信じる人々の生きる元になる(復活されたこと)。殺されているなら、何もできないのではないか!と考えるかもしれない。だがイエスの場合は生きていることの証明である。だが、そのベースは保証がないものであることに気づかされる。
まとめて言うと、スピリチュアリティは生きる意味を探究し、生かそうとする標識であり、それを見つける努力を要求される。言い換えれば、人間が自分の使命の意味と果たすための手段は、言わば自分の使命を探し、受け入れ、絶え間なく明確にしていくことによってその本質や真相が現れてくる。それは、理解しようとする絶え間ない努力が自他の生き方に刺激を与え、自分の使命を継続していく力にもなる。使命を探す中では、デコボコの道を歩き続けることが条件になる。生きる意味、死ぬ意味、そして生きる力を見つける方法を見いだす必要性は、特に生きるエネルギーがないときである。結局、生きる事はup-and-downの中での絶え間ない努力につきる。そのとき、周囲からのことばに影響を受けることも多いことを忘れないように!
日本の教育
2018年のデータ
出生: 920,000人
死 :1,360,000人
2019年のデータ
自死:19,959人/1日約55人
日本の教育は小学校6年間と中学校3年間の義務教育。それに小学校就学までの幼稚園3年間をあわせて12年間の教育の目的は、子どもの個性を生かすことではなく、今の社会が要求する人間像に合わせようとするものであろう。それは子どもが自分で選んだことではないことを意識すればよい。
教育の中心課題は生きる意味を発見することである。具体的に言えば、自分なりに考えながら自分と社会のために生き(働き)、責任をもって働くことである。言い換えれば、皆がともに生きられるように協力することを望むことであろう。
ちなみに、2019年のデータによれば自死は19,959人/1日約55人であった。自死は意義のある目的を見出せなかった、あるいは教えられたことを繰り返していたことによるのではないか。自分に生きる価値があるかどうかを考えることが教育の中心課題のはずではないか。だが、まず自分そのものが意義のある存在かどうかを絶えず自分に問いかけるべきだ。そして自分の存在に意味があるか、もしあればそれは何かと探究し続ける義務であろう。
許すこと
ポジティブ(前向きに生きる努力)に生きることは、ポジティブなもの(ネガティブなものにとらわれない)を発見し、実行することである。そのために許す行為は不可欠になるときがある。生きようとすれば許し合うことがなくてはならない行為だからだ。人間が許し合うことは、努力なしには困難な徳のひとつである。言い換えれば、許す行為は自然なことであろうと考えられる。もう一つは相手の生き方を認め、必要とするときに援助することも、生きるために不可欠な要素である。日本のひとつの特徴は、自死であると思われる。言い換えれば、自死以外に生きることを見つけられないからではないか。もしあるならば、具体的なものは何かを明確にする努力が不可欠な生きる動機になるであろう。
許す行為を考えるとき、自分を導いてくれるものは何だろうかと探究すればよい。自分の生き方の指導者はだれか、どれなのか。現代、特に今、自然は新たな脅威になってきた。事故(交通事故や飛行機事故など)だけでなく、自然そのものが怖いものとして現れている。コロナウィルスはその一つである。人間が自然をありのままに受け入れる努力をするのは、今の生き方に不可欠な要素である。同時に、意義のある人生(生き方)を発見しなければ、意義のある存在を見つけられないだろう。自然は怖くなった(例:コロナウィルスのような新しい病気)。そのことに対して周囲からポジティブな影響を受けているかどうかが課題になる。それには自分の存在に果たして意味があるかどうかを考えざるを得なくなる。
だが今の人々は意義のある生き方を意識しているか。特に、ともに意義のある人生を生きられるような環境が不可欠になっている現在(新しい病気の発生)では、なおのことであろう。
そのために必要とする自分の力、能力を育てるのは欠かせないことになる。具体的に言えば、より意義のある生き方を自分の身につけるチャンスだと思われる。(新しい病気に対する健全な態度)。言い換えると世の中に意識的に生きる人間が必要とされるからである。
意義のある人生を送ることが優先課題であることを忘れてはいけない。そのためには生きる意味をもつこと、それを生かすことは必要不可欠な行為になってくる。言い換えれば、自己の指導者がだれか、どれであるかを明確にする行為はその一つである。自然が怖くなっている事だけでなく、(気候変動、環境破壊など)意義のある生き方は、今の人類に必要とされる事なのである。
そのために具体的に言えば、世界が、皆が、意義のある人生を生きることが可能になるための努力が必要である。自分で決定できることは一つの必要不可欠な課題になる。頂いている賜物によって、人間が適切な人生を送ることは助けになり得る。さまざまの能力があるからだ。ところがその能力は、人類全体の生き方を生かせるかどうかは別である。予測できない事故などによって人間の人生は脅かされているからだ。
同時に、自分の生き方を反省するのは現在の不可欠な行為であろう。
私の体験
基本的なことは、何も明確にされなければ、何も生まれてこないであろう。一つの例として私の体験を申しあげたい。
私の家族は両親の他に6人の兄弟姉妹からなっていた。特に“静けさ”は、私にとって必要であったから、自分の部屋がほしかった。それは6人の兄弟姉妹では要求することは当たり前の状況ではない。ところが10歳の時、この願いが満たされた。一人の叔父が急に亡くなり、残された家具を頂いたからだ。この遺言は私にとって宝ものとなった。ところがこの喜びは、長持ちはしなかった。戦争中であったからだ。叔父の家具の中には特別に作られた木製のベッドとタンスがあった。これは私にとって非常に喜びの元になっていた。だが戦争でそれらを喜んだ時期は短くなった。具体的に言えば、私たちの家族が住む家は爆撃で破壊され、家具も燃えてしまったからだ。その時には家族、すなわち両親と6人の兄弟姉妹は田舎にいる知り合いの人が助けになった。住まいは、村のある家の一つの部屋だったり、使われていない学校だったりした。結果として3~4年間、私たち家族はさまざまな場所で部屋を借りることができた。
高校卒業後、私は修道会の司祭になることを決めた。その結果としてすぐ、私は親と兄弟姉妹から離れて暮らした。そして私は修道会に入り、外国への宣教を希望した。その結 果25歳で日本に派遣され、修道会の4人のメンバーと一緒に船で日本に来た。
日本語そのものはもちろん分からなかった。だが、日本に到着してから、自分の少しだけ覚えている日本語を使ってみたかった。ところが、日本語の発音は私の慣れているものではなかった。夜汽車で神戸から鹿児島まで、約840~850㎞の旅を体験した。当時の列車内はとても狭く、窮屈だった。私の向かい側に一人の女性が座っていた。彼女にあいさつしようとして、言葉をかけた。ところがそのときに使った単語は2つの読み方があった。「お宅さんはキレイ(美しい)ですね」と言いたかったが、「お宅さんはキライ(嫌い)ですね」と言ってしまった。これでは相手がショックを受けたのは当然だった。
日本に8年間住んでから、一つの体験をさせてもらった。私は日本で教えるためでなく、皆さんに耳を傾けて聴く使命をもっていることに気づかされたことだった。そのために5年間、アメリカに傾聴の勉強に行かせてもらった。聴くことが中心課題だった。5年間かかったけれど、私の人生は聴くことによって豊かにさせてもらえた。
ちなみに今年の私の中心課題は、病気をもっている人の、静けさの内のことばを理解する努力に使い込んでいる。静けさは語っているからだ。その訓練のために朝と夕方60分ずつ瞑想している。
私の中心課題は自分の生き方、自分の行為、自分の目標は果たして意義があるだろうか。もしあるならばその意義は何だろうか。それを研究することが今の私の課題である。
その際のまとめとして、自分の生きる事に果たして意味があるだろうか。あるならば何、どれであろうかが中心課題となっている。