2012年 10月 30日
スピリチュアルケア誌57号 2012年10月 |
QOL Quality of Life 生命の質
はじめに
私事だが、今年の8月~10月までの間、医療関係の施設に予想外に多く出入りした。ホームドクターをはじめ、心臓内科、歯科、眼科、外科、泌尿器科、整形外科、大学病院とリハビリ施設まで。その際、待合室の読み物や疾病の治療の説明書にあった「QOL Lebensqualität 生命の質」の文字に目が留まった。検査入院や手術入院の際、自分自身のことを含め、患者の「QOLとは果たして何だろうか」と熟考する機会が充分あった。
◆ QOLの定義
医療機関での読み物においてはQOLを五体満足、日常の生活を自分でできることのように捉えている印象を受けた。わたしはQOLを身体的、知的、社会的、心理的/精神的および心・霊・魂の機能状態を示すもの、だと定義する。
QOLは五体満足*1 かどうかだけではなく、生きる意味や目標、ひとりの人間としての価値や、尊敬され、必要とされる人間としての繋がり(絆)をどの程度もっているかを示すものだと捉えている。
ある方がQOLに関して以下のように述べています。
「QOLを定義するとき、言葉上の定義だけでは不十分です。だからと言って、内容そのものの定義はさらに困難です。なぜならば“life”とは、一人ひとりが個別にもつ生であり、自分を生きる/活かすベースは個に備わるものだからです。自分を生きるために、自分を活かすために必要なものは各人違っており、『自分はどう在りたいのか』『自分にとって生きるとは』『自分を生かすものとは』・・などを自分自身に問う中で、はじめてQuality of lifeを生きた言葉として一人ひとりが意味をもって発することができるのです。そのような内的な動き無くして、言葉だけの概念に止まれば、ただの決まり文句(飾り)になってしまいます。QOLという言葉の概念を個々の存在に引き戻し、独自の意味を与える(見出す)ことが大事だと思います。」
わたくしもこのような考え方に賛成です。
◆ 自己のQOLー実践
待つ時間 1
殊に心のQOLは個人が担う日常の課題である。入院中、健康状態の変化は別として、自己のQOLを考えてみる機会があった。わたしにとって”未定の中での待つ時間”は整理する必要がある一番の課題になった。というのは、大学病院での第一回目の検査は合計4時間であったが、実際の検査にかかる時間はその4分の1であり、その他の時間は待合室で待っていた。その待ち時間を有効に使うには工夫が必要であった。わたしは各科ごとに掲示されているポスターから基本的な知識を学ぶ時間~メモを取る~として有意義に過ごすことができた。
掲示物を読んで考えたことの例をいくつか以下に挙げてみる。
・「Pneumonologie 呼吸器科」のドイツ語は特に意味深かった。「Pneumonologie」という言語はギリシャ語の「πνεύμων プネウモーン 肺 → πνεύμα プネウマ 息、霊=スピリット」と「λόγος ロゴス 教え、科学」であり、スピリチュアルケアとの深い関連に驚くとともに、面白いと思った。肺を活かさせるスピリット。
・「Diagnostik und Therapie 診断と治療」というポスターによって、さらに刺激を受けた。というのは、診断ができても必ずしも治療法があるとは言えない。例えば、がんという診断ができてもがんの治療法は簡単には手に入らない。「死亡」という診断ができても、「死への療法」はない。スピリチュアルケアについて考えた場合は尚のことだと気づいた。治療どころか、正確な診断すらできないこともあるからである。
・医療機器を観察しながら「機器そのものは物質に移植(植込み)されている知性、理解力、知能 implanted intelligence」であると考えた。
ちなみに、スピリチュアルケアにおいては、診断機器はなく、聴く耳、みる目、理解する心しかない。そこが一般の医療とは根本的に異なっていることに新たに気づいた。医療上、機械によって得たデータは治療の基礎になり得るが、絶対的なものではない。例えば今回、ペースメーカーを埋め込んでもらう時、二人の医師がわたしに「この手術をもう何千回以上行った」と自信をもって言った。しかし実際は、機械が正常に機能していたにも拘わらず手術はスムーズに行かなかった。
スピリチュアルケアの場合は同じような病・闘い・問題(例:許すこと)で苦しんでいる方といくら出会っても、機械的(マニュアル的)な関わりによって得られるデータも、論拠となるような規則的な結果も生じてこない。「心・霊・魂の病」を診断し、治療を示唆してくれる機械はないからである。
余談であるが、わたしの母校は「Humanistisches Gymnasium 人間的な学びを中心としたギムナジウム(中、高等学校)」という名称の、ラテン語とギリシャ語、その文化を理解することを大切にした学校であった。そのおかげで医療用語の語源を把握するために大いに助けとなった。
医療機関で待ち時間が長いのはよくあることである。その時間を消極的に過ごすか生産的に過ごすかは自己に任されている。わたしは待合室にある読み物を退屈しのぎのために仕方なく読もうとは思わない。関心のない、自分に必要でないニュースや記事などを内面的な空間に無理やり詰め込むことはしたくない。初日に受けたいくつかの基本的な検査には4時間以上かかったが、退屈せずに勉強になったことは内面的な充実感を与えた。
待つ時間 2
心臓弁膜の手術検査の際、11時~17時まで自分の順番がくるのを病室で待っていたが、17時頃、「今日はできず、明日になる」という連絡があり、それまで絶食だったため、やっと昼食を取ることができた。この時の待ち時間は、ほとんどを病室の前のベランダで過ごし、読書したり、林(自然)をゆっくり味わって観察し、内面的な落ち着きを得た。いらいらせずにその「無意義な時間」を「有意義な時間」として工夫することができた。
翌日にも二つの治療があり、そのため食事は21時までできなかったが、その日もいらいらせずに過ごすことができた。
待つ時間 3
次の日のスケジュールはほとんど未定、すなわち教えてもらえなかったので、非常にいらいらした。その状況で自然を観察し、味わうことはなかなかできなかった。
ペースメーカーを埋め込んでもらう前夜の飲食は禁止だった。翌日の自分の番が午前中であることを希望したが、12時になっても何の連絡もなかった。やっと「13時」と言われたが、14時になっても連絡がなかったので非常にいらいらし、怒ってしまった。15時にようやく手術室に運ばれ、心が静かになった。手術は1時間で終わると聞いていたが3時間掛かった。4時間後に病室に戻り、食事は夜9時になった。
その日、待ち時間を有効に過ごすことができず、反省している。自分の信条からも援助(コツ)を得られなかった。与えられた状況を生産的に、内面性を向上させるように利用する課題(宿題)が残っていると感じた。
◆ 医学・医療におけるQOL
医学・医療そのものはより良いQOLを目指している機能だと捉えているが、必ずしもそうではない。入院患者の身体的な機能をリハビリしてくれる過程において”もの扱い”されていると感じる時があるからだ。また、状況(都合)によって「健康の基準値」が変動することもある。昨年の福島原発事故の後、放射線の安全基準値が上げられたことは一般に知られている。あるドイツの医師の著書(表紙)にある言葉はこうしたことを裏付けてくれる:「Es ist besser, wenn Sie krank sind- für unser Gesundheitssystem. Zur Not werden Sie für krank erklärt. 厚生制度のためにわたしたちが病気であることは有利です。必要に応じてわたしたちは病者として認定されます。ドイツでは数百万人が計画通りに間違った治療を受けている。特に各種の予防治療、循環器病、糖尿病やがんなどに対する治療では、副作用によって重大な弊害を生じさせる薬や療法が広がっている。」*2
◆ ”出生前診断”について
最近、ワシントン大学の研究者によって、母親の血液と父親の唾液から胎児の完全なゲノムが解読できるようになった。今年中にドイツでは、胎児の21番目の染色体に異常があるかないか(ダウン症の原因は21番染色体が3本あることが原因とされている)を検査できるテストを入手するという。この出生前診断の確率は98%とのことである。なお将来、次々に新しい出生前診断の検査が登場すると予想できる。出生前診断は今から50年前に始まったが、それ以前の妊娠には“信頼”がベースにあった。妊婦はドイツ語で「よき希望 Guter Hoffnung」と呼ばれ、それは「赤ちゃんの健康を信頼している/いた」という意味である。日本語の「子供を授かる」という表現も同様であろう。
信頼なくして、わたしたち人間は生きられない。不信の中で、寝ること、起きること、ものを使うこと、車に乗ることなどは不可能になる。“出生前診断”は妊娠を“不信=信頼できない”状態に置いてしまう恐れがある。現在まだ高額の新出生前診断を高齢妊婦でなくても妊婦の多くが今後受けると予想できる。出生前診断は親になろうとしている方々に“安心”を与えると同時に解決のできない実存的な問題と対峙させるかもしれない。「ハンディキャップのある子供との生活が可能だろうか」「将来、堕胎したことを後悔しないだろうか」など。結論から言えば、より多くを知ることは、より多くの知らないことに直面する。解決に苦悩する事柄が生み出される可能性があると言える。*3
ある方からのお便り:「実は昨年、ダウン症の息子を出産しました。高齢出産のため、と自分を責める思いと、息子の未来を案じて、精神的につらい日々を過ごしておりました。…おかげさまをもちまして、息子は〇〇月〇〇日に1歳になり、ゆっくりした成長過程ではありますが、命に別条なく、スクスク育っております。」
わたしの返事:「…息子さんのことをお伝えしてくださったことを感謝しています。…わたしは何も言えないのですが、ご自分を責めないこと、“高齢出産”や“ダウン症”のことばを使わない方が健全ではないかと思います。ご自分が“高齢”*4 ではないし、息子さんはダウン症ではなく、ダウン症を持っている人というだけです…」
ご返事:「息子はダウン症ではなく、ダウン症を持っている人」。…物事の本質をしっかりとらえていないと、すべてのことをはきちがえてしまい、正しい理解ができない、と教えていただいたのに…私も…さまざまな学びと恵みをいただきました。しかし、自分が当事者となって、悲嘆と不安にさいなまれる時に思うことは、私はスピリチュアルケアを他者のこととして、学んでいたのだ…。」
手足のない乙武さんが言う。「障害者とほとんど接点を持たずに過ごしてきた人が、突然、『あなたのお子さんは、障害者です』という宣告を受けたら、やはり育てていく勇気や自信はないだろう。僕の母も、『もし、私も胎児診断を受けていて、自分のお腹のなかにいる子に手も足もないということが分かったら、正直に言って、あなたを生んでいたかどうか自信がない』という。
だからこそ、声を大にして言いたい。『障害を持っていても、ボクは毎日が楽しいよ』。健常者として生まれても、ふさぎこんだ暗い人生を送る人もいる。そうかと思えば、手も足もないのに、毎日、ノー天気に生きている人間もいる。関係ないのだ、障害なんて。」*5
◆ 命にかかわる病気におけるQOL
ある方からの「それでも感謝」というメール文を以下に紹介します。
…〇〇に先生が来て下さりお帰りになった後、たくさんの悲しみ、苦しみが有りました。最愛の母が〇月〇日旅立ちました。…母は私を思い、私は母を精一杯看ていましたが、〇〇歳で頂いた命を使い切った母はいつもありがとうと身近に居た方にも感謝しつつ、体調の悪い私を気づかいながら光の道に向かって行きました。
昨年の暮れから体調の悪くなった私は先生の言葉、戴いた十字架、洗礼に与ったことなど思い出して力を戴き、神様傍に居てくださいと祈りました。光の道を通り抜け再び生きることが出来ますようにと祈りました。 神を信じる心を持てたことに感謝しています。今、少し体調も良くなってメールを差し上げられました。今度の全国大会に少しの時間でも出席できますようにと望んでいます。
◆ “自己のQOL” と”他者との共存”
自己のQOLは人生が思うとおりにならない/ならなかったときにこそ自覚され易い。わたしやあなたにとってQOLを決める基とは何か?
ラビPinchas Horowitz (1730-1805 1771年よりフランクフルト・アム・ マイン川のラビとして任命された)は学生に「夜が終わり、日が始まる瞬間を区別できる方法があるだろうか」という問題を出した。一人の学生は「ある距離感で犬と牛を区別できるときが夜明けの瞬間でしょうか」と尋ねた。ラビは「いいえ」と答えた。「ヤシの木とイチジクの木を区別できる瞬間でしょうか」ともう一人の学生が聞くと、ラビは「いいえ、それでもない。」と答えた。「それで夜明けはいつだろうか」と学生が聞いてみると、ラビは次のように答えた。「わたしたちはある人をみるとき、その人を自分の兄弟として発見できる瞬間は夜明けです。これができない限りは夜です」とラビが答えた。*6
QOLは他者と共に生きる中で考えるとき向上したり低下したりする。
この記事を作成している時、ある親戚から何年か振りに電話があった。最後に「ich wünsche dir alles Gute an Leib und Seele あなたに体と魂のためにもよいことがありますように希望しつつ。」この挨拶はQOLが全人的なものだと伝えてくれた。
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1: 国語的に古くから用いられているのは「四肢(しし=手足)+頭部(とうぶ)」です。仏教が元になっています。実際には「肘(ひじelbow)と膝(ひざ)と額(ひたい)」ですが……東洋医学では「筋(すじ)・脈(みゃく)・肉・骨・皮」とされています。つまり五体満足は手足に欠けるところのない状態をいいます。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111742461
2: Dr. med. Gunter Frank „Schlechte Medizin Ein Wutbuch 現代医学のひどさ -怒りの書-“ Knaus 2012
3: Philosophie Magazin Nr.05/2012 11頁参照
4: 高齢というレッテルを自分で自分に貼る必要はないという意味。
5: 五体不満足 乙武洋匡著 269頁後書き
6: Tomas Halik Nachtgedanken eines Beichtvaters Herder 2012 263頁
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by pastoralcare-jp
| 2012-10-30 14:59
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