2008年 01月 22日
本物のスピリチュアルケア |
スピリチュアルケアには気持ちではなく使命感が大切
スピリチュアルケアは、人が「自分の生の意義」を自覚するための援助であり、多くの人にとっては人生のさまざまな場面で必要とされます。 そのような「ケア」をするためには自分の全身全霊をかけること、コミットすることが不可欠な条件となるでしょう。生きるということがその人の「気持ち」の問題ではないように、スピリチュアルケアも単なる心理的な「気持ち」ではなく、その人の存在そのものに要求されている努力であり、課題でしょう。 なるほど生きるためには、スムースな人間関係も助けにはなるでしょうが、それがすべてではないようにスピリチュアルケアもまたそうなのです。たとえ人間関係がうまくいかないとしても、生きることを簡単に停止できないのと同じように、スピリチュアルケアも人間の存在そのものに係るものとしてのケアであって、心理的な「気持ち」の共有だけではないのです。
人が生きていくには使命感・天命や天職が一生の「核」になることが多い。 スピリチュアルケアは人の存在そのものに拘わるものですから、その人の使命感と強く関わります。スピリチュアルケアは自分の都合によって行ったり行わなかったりするような行為ではないことをマザーテレサの生き方を通して考えてみたい。 マザーは人の「soul 魂」=「スピリチュアルな要素」を救うために自分の生涯をささげた方なのです。
マザーテレサの内面的な(心と魂の)苦しみ
2007年12月24日付けのタイム誌は、2007年の「宗教・信仰に関する話題のトップ10」の#1として「マザーテレサの信仰の危機」を挙げた。 マザーテレサは50年間、神の慰めや神の存在を感じなくて苦しんでいたことを、自分のスピリチュアルな指導者(“スピリチュアル指導者 spiritual director”および“告白を聞く司祭 confessor”)へ宛てた手紙で告白しました。そこには362頁ほどにわたりマザーテレサの内面的な苦痛が述べられています。
マザーテレサは1946年9月10日、汽車に乗っている途中でイエスの願いを聴き、1948年にこの願い通りに実行するまで、イエスの存在と自分との親密な関係を体験することができました。だが実際にスラムでの活動をし始めると、こうしたイエスとの内面的な関わりはまったく消えました。マザーは書いています。「(19)49年あるいは(19)50年頃から、こんな恐ろしい喪失感、計り知れない暗闇、この孤独、この絶え間ない神への熱望、 このようなものがわたしの心の深いところで苦痛を与えている。-余りの暗闇なので、わたしは心を通しても或いは理性によってもわたしは何も見えない。-わたしの魂の中の神の居所は空白である。-わたしの中に神はいない。-神を切望する気持ちが痛いほど強い時、わたしに出来る事はただただ神を慕いそして切望するのみなのである。-だがその時なのだ。『神はわたしを望んでいない、神はそこにいないのだ』とわたくしが感じるのは!-『天(国)』や『魂』、どうしてこれらはわたしにとって何の意味もない単なることばに過ぎないのだろう。-わたしのこの人生は全く矛盾にみえる。わたしは人々の魂を一体どこに行くように何を援助しているのだろうか。-こんな事は全て一体何の意味があろうか? わたし自身の存在の中でいったい魂はどこにあるのか? 神はわたしを欲していない。-時々、わたしは自分の心が『我が神!』と叫んでいるのを聞くが、それ以外何も聞こえない。-この苦悩や苦痛をわたしは説明できない。」
マザーテレサの内面的な苦痛に対して、(カウンセリングを含む)相談、薬物や手術、社会的入院などは助けにもならず、苦痛からの解放の出口にもなりませんでした。マザーテレサは神・イエスから離れずに、イエスの存在を生き生きと体験したときは貧しい人と関わっていたときだけであったという。
マザーテレサのトレードマークは祈りのポーズ(合掌している手)と笑顔でした。以上の告白の手紙によれば、長年祈るときに内面的な喜び・助けや慰めを感じなかったという。だが、内面的な苦痛や孤独にもかかわらず笑顔を見せていました。周囲に自分の本当の内面性は見せませんでした。こうした行動は心理学的には健全でないと判断するのは当然でしょう。だが本人が自分の実際の状況を周囲に見せなかった理由や動機は、イエスに傷を付けたくなかったためだという。
マザーテレサの最期の状態は死後5年経って初めて公開されました。 マザーテレサは心臓の件で入院したとき、夜中は極めていらいらとしてチューブを引き抜こうとしていました。 そのとき、同じ病院に入院していたコルカタ(旧カルカッタ)のカトリック大司教Henry D’Souzaはマザーに「悪魔払いを行えばどうか」と勧め、マザーは納得しました。「悪魔払い」の祈りの後、マザーはまるで「赤ん坊」のように寝られたという。もし他の医療機関であったなら睡眠剤やモルフィネによる鎮静剤での治療(セデーション)を実施していたのではないでしょうか。薬物は処方のすべてではないのに。
人間は単なる動物ではありません。身体・感情・情緒や衝動、ある程度の知性の要素は他の動物にもあります。だが人間に対するケアでは心と魂、スピリットの存在を無視するわけにはいかないのです。わたしたちが目指している臨床パストラルケアはそんなに簡単なものではありません。わたしたちはマザーテレサのような人物でなくても、ある程度の天命や天職、使命感や存在意義を有しています。こうした要素に対するケアは現在こそ必要ではないでしょうか。そのためには気持ちや人間関係ではなく、まず自分自身の心・霊・魂の存在や生き様、天命や天職、使命感や存在意義を再認識し、再確認するのが第一歩でありましょう。
スピリチュアルケアは、人が「自分の生の意義」を自覚するための援助であり、多くの人にとっては人生のさまざまな場面で必要とされます。 そのような「ケア」をするためには自分の全身全霊をかけること、コミットすることが不可欠な条件となるでしょう。生きるということがその人の「気持ち」の問題ではないように、スピリチュアルケアも単なる心理的な「気持ち」ではなく、その人の存在そのものに要求されている努力であり、課題でしょう。 なるほど生きるためには、スムースな人間関係も助けにはなるでしょうが、それがすべてではないようにスピリチュアルケアもまたそうなのです。たとえ人間関係がうまくいかないとしても、生きることを簡単に停止できないのと同じように、スピリチュアルケアも人間の存在そのものに係るものとしてのケアであって、心理的な「気持ち」の共有だけではないのです。
人が生きていくには使命感・天命や天職が一生の「核」になることが多い。 スピリチュアルケアは人の存在そのものに拘わるものですから、その人の使命感と強く関わります。スピリチュアルケアは自分の都合によって行ったり行わなかったりするような行為ではないことをマザーテレサの生き方を通して考えてみたい。 マザーは人の「soul 魂」=「スピリチュアルな要素」を救うために自分の生涯をささげた方なのです。
マザーテレサの内面的な(心と魂の)苦しみ
2007年12月24日付けのタイム誌は、2007年の「宗教・信仰に関する話題のトップ10」の#1として「マザーテレサの信仰の危機」を挙げた。 マザーテレサは50年間、神の慰めや神の存在を感じなくて苦しんでいたことを、自分のスピリチュアルな指導者(“スピリチュアル指導者 spiritual director”および“告白を聞く司祭 confessor”)へ宛てた手紙で告白しました。そこには362頁ほどにわたりマザーテレサの内面的な苦痛が述べられています。
マザーテレサは1946年9月10日、汽車に乗っている途中でイエスの願いを聴き、1948年にこの願い通りに実行するまで、イエスの存在と自分との親密な関係を体験することができました。だが実際にスラムでの活動をし始めると、こうしたイエスとの内面的な関わりはまったく消えました。マザーは書いています。「(19)49年あるいは(19)50年頃から、こんな恐ろしい喪失感、計り知れない暗闇、この孤独、この絶え間ない神への熱望、 このようなものがわたしの心の深いところで苦痛を与えている。-余りの暗闇なので、わたしは心を通しても或いは理性によってもわたしは何も見えない。-わたしの魂の中の神の居所は空白である。-わたしの中に神はいない。-神を切望する気持ちが痛いほど強い時、わたしに出来る事はただただ神を慕いそして切望するのみなのである。-だがその時なのだ。『神はわたしを望んでいない、神はそこにいないのだ』とわたくしが感じるのは!-『天(国)』や『魂』、どうしてこれらはわたしにとって何の意味もない単なることばに過ぎないのだろう。-わたしのこの人生は全く矛盾にみえる。わたしは人々の魂を一体どこに行くように何を援助しているのだろうか。-こんな事は全て一体何の意味があろうか? わたし自身の存在の中でいったい魂はどこにあるのか? 神はわたしを欲していない。-時々、わたしは自分の心が『我が神!』と叫んでいるのを聞くが、それ以外何も聞こえない。-この苦悩や苦痛をわたしは説明できない。」
マザーテレサの内面的な苦痛に対して、(カウンセリングを含む)相談、薬物や手術、社会的入院などは助けにもならず、苦痛からの解放の出口にもなりませんでした。マザーテレサは神・イエスから離れずに、イエスの存在を生き生きと体験したときは貧しい人と関わっていたときだけであったという。
マザーテレサのトレードマークは祈りのポーズ(合掌している手)と笑顔でした。以上の告白の手紙によれば、長年祈るときに内面的な喜び・助けや慰めを感じなかったという。だが、内面的な苦痛や孤独にもかかわらず笑顔を見せていました。周囲に自分の本当の内面性は見せませんでした。こうした行動は心理学的には健全でないと判断するのは当然でしょう。だが本人が自分の実際の状況を周囲に見せなかった理由や動機は、イエスに傷を付けたくなかったためだという。
マザーテレサの最期の状態は死後5年経って初めて公開されました。 マザーテレサは心臓の件で入院したとき、夜中は極めていらいらとしてチューブを引き抜こうとしていました。 そのとき、同じ病院に入院していたコルカタ(旧カルカッタ)のカトリック大司教Henry D’Souzaはマザーに「悪魔払いを行えばどうか」と勧め、マザーは納得しました。「悪魔払い」の祈りの後、マザーはまるで「赤ん坊」のように寝られたという。もし他の医療機関であったなら睡眠剤やモルフィネによる鎮静剤での治療(セデーション)を実施していたのではないでしょうか。薬物は処方のすべてではないのに。
人間は単なる動物ではありません。身体・感情・情緒や衝動、ある程度の知性の要素は他の動物にもあります。だが人間に対するケアでは心と魂、スピリットの存在を無視するわけにはいかないのです。わたしたちが目指している臨床パストラルケアはそんなに簡単なものではありません。わたしたちはマザーテレサのような人物でなくても、ある程度の天命や天職、使命感や存在意義を有しています。こうした要素に対するケアは現在こそ必要ではないでしょうか。そのためには気持ちや人間関係ではなく、まず自分自身の心・霊・魂の存在や生き様、天命や天職、使命感や存在意義を再認識し、再確認するのが第一歩でありましょう。
by pastoralcare-jp
| 2008-01-22 17:10
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