スピリチュアルケアの勉強室 2017年1月 |
「寄り添う」行為の要因
ウァルデマール・キッペス
「寄り添うこと」は、単に付き添うこととは異なる。また、従属した関係のためにknow-howを学び、それを実行するような行為でもない。教育において身体的、精神的な医療資格を取得するには知的能力が中心課題とされ、志願者の実際の生き方や考え方などのような人格的な要因ではない。人間学や哲学、神学や宗教学、言わば人文学は不可欠な条件でもなく、プロセスは問題にされない。寄り添う行為の基本は自己の内面的な状態である。それは免許を取得するまでのことではなく、生涯にわたる自己の研修と研究の課題である。時には教科書や研究リポートを参考にしたとしても、自己の生き方の主要な素材となるのは「寄り添う」行為の土台になる。言いかえれば日々の意識的な生き方 が中心的な要素となる。人生、言わば生きることは日々の単純な繰り返しではないからだ。
以下に寄り添う行為の要因(ベース)を取り上げる
・自己のアイデンティティーの再確認。
・自分の価値観を知ること:無意識に自分の価値観を相手に負わせないために。
・傾聴の徹底した知識とその訓練および育成:寄り添う行為の出発点は相手のニーズを聞く/聴くことから始まり、それらに向かって歩む行為。そのためには的確で継続的な訓練が必要。傾聴は重労働であることを忘れないように。
・見る目:外観にとらわれず相手の品位や内面性を発見する目の育成。
・心:善悪の個人的な判断とその実行。正直であることや責任感、尊敬心や不思議がる心などをもち、育成し続ける。
・知識:現実=相手の生き方や習慣などを学び続ける姿勢。例:哲学や宗教学、心理学や精神医学などを浅く学ぶのではなく、一つの領域を深める。
・相手が自分でできることは自分で行えるように刺激を与え、依存者を作らない。
・相手に、「わたしにできることは何でしょうか what can I do for you」と確認するよりも、「わたしがどういう人であってほしいですか what can I be for you」を中心課題にするのは良いと思う。
・教えることではなく、解決できない人生の時(例:今、寄り添う必要性)を共に生きることを学ぶ。そのとき他者から学び、教えられたことや、教科書を参考にした上で、自己の体験によって、生きる知識やコツを得たこと。今、またそれを得ようとすること。
・実践の基は他者から教えてもらったことか、それとも自己体験から得た独学のバランス。
・過去やその時の自己体験から得た知識を相手と分かち合い、参考として提供すること。
「寄り添う」行為の最近の例
旅立つまでの3年間、独り暮らしの老人を世話した後、同様なケアのために呼ばれた所では、2週間余りしか寄り添うことができなかった例を、最近耳にした。相手のニーズには多様性があるからだ。
毎回、同じ方法で仕事ができるその一つは葬祭場と火葬場であろう。そこでは決まったとおりに行う入棺や火葬の方法、行為を観察・体験できたことが印象に残っている。当事者の個性やニーズを考えずにできる行為は、寄り添う行為とは異なっている。
相手の「どうすれば良いか分からない」という実存的な叫びに、本人と共に人間として無力な状態の痛みから逃げないこと。「何もできない」「もう死にたい」などの叫びに対して、援助できないことは寄り添う側の重荷になり得る。だが、「無力」とは自己の実存的な問いかけなのである。
ある患者さんに「助けてください」と言われ、自分の意見を出した。ところが、言い終えないうちに患者さんが、「この考えに反論しなければなりません!」と話に割り込んできた。そういう時、「相手の意見を最後まで聞き、それからご自分の意見を述べればどうでしょうか」と勧めればよい。だがそれも、時を待つこと。もしすぐ言えば、相手はおそらく、素直に受け取れない。それだけではなく、(寄り添う)わたしとの関係を切ってしまう可能性がある。だがその時すぐ言えなくても、言うチャンスをうかがうことは大切だ。同時に、自分自身にも相手の話に割り込んだことがあったかもしれないと考え、反省するとよい。
ちなみに、相手は自己を解放するコツとしてしゃべっていることが分かるなら、その内容をつかむのではなく、ただ相手になることが援助になることも少なくない。
寄り添う準備
清掃員や事務員を含めた医療スタッフは施設や病室の入室時、まず手を消毒する。診察や手術前には患者さんに菌(害)が付着しないために着替え、消毒、マスクで口を覆い、髪の毛が落ちないように帽子を被る。
同様に、寄り添うときには内面性を“消毒”する行為が不可欠だろう。初めに取り上げた基本的な項目の、一つでも二つでも中心課題にすればよい。余裕があること、言葉と行いに違和感のない同一した自分自身であるかどうかを再確認すること。生きている心は、寄り添う行為の土台だからである。