2013年 05月 10日
スピリチュアルケア誌 2013年4月 59号 |
内面的な力
~制限がありながら 無力ではない~
社会の現実は理想的なものではなく、自分自身も理想的な状態ではない。だが生きる、しかも共に生きる/生きられることは目的であろう。そのためにはまず自分から始めればよい。自分自身が生きる意味や目標、共に生きられる理想的な社会のイメージをもっているだろうか。それとも何とはなしに暮らしているだろうか。もし自分の希望通りにいかないことがあれば気候や健康、周囲・社会や政治のせいにし、批評や不平の中で日々を過ごしているのだろうか。自分自身の内面性を活かし、病んでおられる人間同士としての心構えを育むことを日々中心課題にしながらも、わたしは、例えば政治というものの難しさについてあまり考えたことがないことに気づき、反省している。
現代社会
終戦後、成り立った現代社会の理想は独立と自立、すなわち他者に寄り掛からずに生活することである。言い換えれば独立、自立への憧れは人間が相対的関係の中で生きざるを得ないことの表れでもある。この独立、自立に対する絶対的な解釈を「痴呆性・認知症の時代」と言われる現代社会に当てはめるなら、人間社会や人間性の崩壊につながるのではないだろうか。
「ケア」か「共に生きる」
デンマーク人セーレン・オービエ・キェルケゴールは言う。「ヘルパーの手助けは、まず援助を必要とする人の前にひざまずくことから始まるべきです。本物の援助は支配することではなく仕えることだと把握すること。手を伸ばすことは権力ではなく忍耐の訓練であること。手助けすることは自分が完璧ではないこと、また相手が理解していない、悟っていないことを認める心構えをもつことです」と。
他者からの助けを必要とする人との関わりにはプレゼントとなる要素が含まれている。ある精神病院に勤めるチャプレンの「毎日、プレゼントをもらって家に帰る」との発言は8時間の仕事(?)で非常に疲れるのではないかと想像した私には驚きであった。このチャプレンにとって、人との関わりは仕事ではなく、相手を尊重しつつ人間同士として共に生きる出会いではないだろうか。
人間は変わることができる
ローマカトリック信者12億人の代表者ベネディクト16世(名誉法王)は、今年2月11日に「2月28日をもって、年齢(4月16日に86歳になられる)と身体的な力の減少により任務を十分に果たすことが出来ないため引退します」とラテン語で発表した。日本には人口比の0.35%しかカトリック信徒がいないにもかかわらず2月、3月とローマ法王に関するニュースとマスメディアの報道は多かった。その理由として、宗教や信仰への関心からではなく法王が引退するのは1415年(グレゴリー12世 *1)以後、約600年振りという歴史的な出来事への関心からであろう。
新たに選出された76歳のローマ法王フランシスコは気さくな言葉で話し、特別な赤い靴やケープを使わず、人と抱き合い、キスし、通常聖ペトロ大聖堂で行う礼拝をローマの小さな教会や矯正施設で礼拝を行うなど伝統と習慣を変えられた。
これらの出来事は、たとえ人間が歳をとり身体的に衰えても内面的な力を活かし、何百年間の伝統や習慣を変えることができる証拠でもあろう。社会の体制や状況に対して仕方がないと憂うのではなく、改善できる、成長できるという希望をもって小さな事からでも始めてみれば良いのではないだろうか。
「信仰なしには生きられません」
生きるために必要な物質的ベースも重要なのは確かだが、困難に出遭った時には内面的ベース、つまり内面的な力が助けとなることが大きい。現在87歳になる私の一人の姉Erikaは小さい頃からいくつもの病を患っていた。1944年2月、姉にとって高校卒業試験4週間前のことである。*2 ドイツの学校では宗教は必修科目であった。だが宗教を否定したナチドイツの時代には宗教からの影響を排除するために「世界観」という必修科目が加えられた(「世界観」といいながら宗教を否定するナチイデオロギー)を強化する目的だった)。校長は生徒に「世界観と宗教教育の両方を受けても良い」と発表したが、その2週間後には「世界観しか受けられません」と訂正した。その時、姉は手を挙げ「校長先生、両方とも受けられるとおっしゃったのではないでしょうか」と言った。すると校長は怒り「あなたはここから出なさい。退学です」と言い、姉は教室から退出させられた。*3 高校卒業50周年の同窓会で一人のクラスメートが「Erika、その時のことを覚えていますか」と言ってくれた。
一人暮らしの姉の確信「信仰なしには生きられません」ということばが今でもわたしの耳に響いている。
意志の力
カリフォルニアのFranky Carrillo は16歳の時、殺人犯として有罪判決を下され30年の刑を宣告された。今年になって目撃者の偽証が認められ彼は20年ぶりに釈放された。彼は今大学生となり大人になった息子(赤ちゃんの頃の記憶しかない)との関係を築きながら新しい人生を送ろうとしている。「どうして憤慨し怒り狂っていないのか、どうしてそんなに明るいのですか」と聞かれ、彼は「憤慨し怒り狂うなら天地(world)と私は敵対してしまうだろう」と答えた。「私は自由になり、自分の意見を聞いてもらえるという夢をいつも持ち続けてきた。人間の意志は無限です」と。*4
27年間刑務所に収容されていた南アフリカのネルソン・マンデラ、強制収容所での日々を生き抜いたV・フランクル、無抵抗を貫いたインドのガンジーなど、みな厳しい状況を生きつつも明るさを失わなかった人物である。マンデラはきちんとした身なりをして強制であっても自分のペースで働いた。フランクルはガラスを使ってでも毎日ひげを剃り、自分を待っていてくれる人がいるという確信に基づく希望をもっていた。ガンジーは断食と静けさによって「真理は勝つ」というモットーを持ち続けた。これらのことは彼らが厳しい状況の中でも独学し、育んだ内面的なパワーの現れと実践であろう。
互いに励まし合うこと 反応によって生きられる/活かせる
最近のこと。ある幼稚園の園長をしている方が「一週間という短い期間でしたが、そこで学んだ“聴くこと”が今非常に役に立っています。卒園式の時、同僚から『よく聴いてくださることを感謝しています』と言われました」と伝えて下さった。また別の方からは「15年前に臨床パストラルケアで学んだ事は今も生きています」とも。園長への同僚からの反応、それによって生かされたことを伝えて下さったことなど、わずかなことであっても互いの励みになる。
また、突然、重い病気になった娘の母親から「“病人の娘”ではなく、“病気を持っている娘”を相手にすることによって助けとなっています」と伝えられた。わたしはその明確なフィードバックによって活かされた。
イニシアチブ
東京のあるカトリック教会からヒントを受け、入院時の連絡カードを作成した。入院した時、薬物や手術による治療だけではなく、心と魂への配慮を願うために提示するカードである。ある人からポジティブフィードバックを頂いたが、センターのホームページにも挙げたが応答がない。このカードは本誌にも掲載している。
今年1月、カトリック教会の中央協議会宛に「医療施設においてカトリック信徒が信仰援助(司牧)を受ける権利について」と題した文書を出した。その趣旨は以下の通りである。
なお、これはカトリックに関することを例として述べているのだが、カトリックを他の信教や信条に置き換えても当てはまるべきことで、信教の自由に関することである。どのような医療施設でも患者本人が望めばスピリチュアルケアが受けられるようになってほしいとの希望であり、提案である。
1.カトリック信徒が医療施設において、特に命に関わるような重篤な状態にある時、カトリック教会からの援助を受けられるよう「カトリック信徒証明書」を身に付けることを勧めること。
*証明書の例参考
2.公にカトリック司祭(宗教家)の公私立医療施設訪問許可を正式に願うこと。同時にカトリック司祭は公私立医療施設訪問のための基本的な教育、訓練(例:臨床パストラルケア)を受ける制度の導入…。
それに対する返事は次のとおりです。
…カトリック信者が入院する場合に司牧援助を受けられるような証明書や一般の医療施設において訪問許可を正式に願うなどの行為を行ってしまうことは、却って公私立医療施設との関係を悪化させ、病者に対しても司牧を行いにくくなる状況となり得る…
その返事を読むと、私の提案に対して賛同は得られなかった。このように多くの場合、上手くいかない、希望通りにならないのが現実である。しかし現実は現在に留まるだけではなく変化していくものである。可能性を秘めた現在から希望が生まれ道が拓かれて行くと信じている。
~うまくいかなくても やってみよう~
------------------------
1: 注意:1294年、自由意志によるローマ教皇として引退したツェレスティネ(Celestine V)5世に次いで、719年ぶりに自由意志によって生前退位し、名誉教皇となった。生前退位したグレゴリー12世は自由意志ではなかった。
2: ドイツでは高校卒業試験は日本の大学入学試験と同じ。それができたら、どこの大学や学部にも入れる資格を獲得する。現代は違って、この試験の成績 1~6によって受験する学問が決定する。例:医学部の場合は1~1,5の成績がなければ入学しかできない。
3: その後、理由は分からないが、「卒業試験を受けてよい」と校長先生から告げられた。
4: 4月1日BBC.
~制限がありながら 無力ではない~
社会の現実は理想的なものではなく、自分自身も理想的な状態ではない。だが生きる、しかも共に生きる/生きられることは目的であろう。そのためにはまず自分から始めればよい。自分自身が生きる意味や目標、共に生きられる理想的な社会のイメージをもっているだろうか。それとも何とはなしに暮らしているだろうか。もし自分の希望通りにいかないことがあれば気候や健康、周囲・社会や政治のせいにし、批評や不平の中で日々を過ごしているのだろうか。自分自身の内面性を活かし、病んでおられる人間同士としての心構えを育むことを日々中心課題にしながらも、わたしは、例えば政治というものの難しさについてあまり考えたことがないことに気づき、反省している。
現代社会
終戦後、成り立った現代社会の理想は独立と自立、すなわち他者に寄り掛からずに生活することである。言い換えれば独立、自立への憧れは人間が相対的関係の中で生きざるを得ないことの表れでもある。この独立、自立に対する絶対的な解釈を「痴呆性・認知症の時代」と言われる現代社会に当てはめるなら、人間社会や人間性の崩壊につながるのではないだろうか。
「ケア」か「共に生きる」
デンマーク人セーレン・オービエ・キェルケゴールは言う。「ヘルパーの手助けは、まず援助を必要とする人の前にひざまずくことから始まるべきです。本物の援助は支配することではなく仕えることだと把握すること。手を伸ばすことは権力ではなく忍耐の訓練であること。手助けすることは自分が完璧ではないこと、また相手が理解していない、悟っていないことを認める心構えをもつことです」と。
他者からの助けを必要とする人との関わりにはプレゼントとなる要素が含まれている。ある精神病院に勤めるチャプレンの「毎日、プレゼントをもらって家に帰る」との発言は8時間の仕事(?)で非常に疲れるのではないかと想像した私には驚きであった。このチャプレンにとって、人との関わりは仕事ではなく、相手を尊重しつつ人間同士として共に生きる出会いではないだろうか。
人間は変わることができる
ローマカトリック信者12億人の代表者ベネディクト16世(名誉法王)は、今年2月11日に「2月28日をもって、年齢(4月16日に86歳になられる)と身体的な力の減少により任務を十分に果たすことが出来ないため引退します」とラテン語で発表した。日本には人口比の0.35%しかカトリック信徒がいないにもかかわらず2月、3月とローマ法王に関するニュースとマスメディアの報道は多かった。その理由として、宗教や信仰への関心からではなく法王が引退するのは1415年(グレゴリー12世 *1)以後、約600年振りという歴史的な出来事への関心からであろう。
新たに選出された76歳のローマ法王フランシスコは気さくな言葉で話し、特別な赤い靴やケープを使わず、人と抱き合い、キスし、通常聖ペトロ大聖堂で行う礼拝をローマの小さな教会や矯正施設で礼拝を行うなど伝統と習慣を変えられた。
これらの出来事は、たとえ人間が歳をとり身体的に衰えても内面的な力を活かし、何百年間の伝統や習慣を変えることができる証拠でもあろう。社会の体制や状況に対して仕方がないと憂うのではなく、改善できる、成長できるという希望をもって小さな事からでも始めてみれば良いのではないだろうか。
「信仰なしには生きられません」
生きるために必要な物質的ベースも重要なのは確かだが、困難に出遭った時には内面的ベース、つまり内面的な力が助けとなることが大きい。現在87歳になる私の一人の姉Erikaは小さい頃からいくつもの病を患っていた。1944年2月、姉にとって高校卒業試験4週間前のことである。*2 ドイツの学校では宗教は必修科目であった。だが宗教を否定したナチドイツの時代には宗教からの影響を排除するために「世界観」という必修科目が加えられた(「世界観」といいながら宗教を否定するナチイデオロギー)を強化する目的だった)。校長は生徒に「世界観と宗教教育の両方を受けても良い」と発表したが、その2週間後には「世界観しか受けられません」と訂正した。その時、姉は手を挙げ「校長先生、両方とも受けられるとおっしゃったのではないでしょうか」と言った。すると校長は怒り「あなたはここから出なさい。退学です」と言い、姉は教室から退出させられた。*3 高校卒業50周年の同窓会で一人のクラスメートが「Erika、その時のことを覚えていますか」と言ってくれた。
一人暮らしの姉の確信「信仰なしには生きられません」ということばが今でもわたしの耳に響いている。
意志の力
カリフォルニアのFranky Carrillo は16歳の時、殺人犯として有罪判決を下され30年の刑を宣告された。今年になって目撃者の偽証が認められ彼は20年ぶりに釈放された。彼は今大学生となり大人になった息子(赤ちゃんの頃の記憶しかない)との関係を築きながら新しい人生を送ろうとしている。「どうして憤慨し怒り狂っていないのか、どうしてそんなに明るいのですか」と聞かれ、彼は「憤慨し怒り狂うなら天地(world)と私は敵対してしまうだろう」と答えた。「私は自由になり、自分の意見を聞いてもらえるという夢をいつも持ち続けてきた。人間の意志は無限です」と。*4
27年間刑務所に収容されていた南アフリカのネルソン・マンデラ、強制収容所での日々を生き抜いたV・フランクル、無抵抗を貫いたインドのガンジーなど、みな厳しい状況を生きつつも明るさを失わなかった人物である。マンデラはきちんとした身なりをして強制であっても自分のペースで働いた。フランクルはガラスを使ってでも毎日ひげを剃り、自分を待っていてくれる人がいるという確信に基づく希望をもっていた。ガンジーは断食と静けさによって「真理は勝つ」というモットーを持ち続けた。これらのことは彼らが厳しい状況の中でも独学し、育んだ内面的なパワーの現れと実践であろう。
互いに励まし合うこと 反応によって生きられる/活かせる
最近のこと。ある幼稚園の園長をしている方が「一週間という短い期間でしたが、そこで学んだ“聴くこと”が今非常に役に立っています。卒園式の時、同僚から『よく聴いてくださることを感謝しています』と言われました」と伝えて下さった。また別の方からは「15年前に臨床パストラルケアで学んだ事は今も生きています」とも。園長への同僚からの反応、それによって生かされたことを伝えて下さったことなど、わずかなことであっても互いの励みになる。
また、突然、重い病気になった娘の母親から「“病人の娘”ではなく、“病気を持っている娘”を相手にすることによって助けとなっています」と伝えられた。わたしはその明確なフィードバックによって活かされた。
イニシアチブ
東京のあるカトリック教会からヒントを受け、入院時の連絡カードを作成した。入院した時、薬物や手術による治療だけではなく、心と魂への配慮を願うために提示するカードである。ある人からポジティブフィードバックを頂いたが、センターのホームページにも挙げたが応答がない。このカードは本誌にも掲載している。
今年1月、カトリック教会の中央協議会宛に「医療施設においてカトリック信徒が信仰援助(司牧)を受ける権利について」と題した文書を出した。その趣旨は以下の通りである。
なお、これはカトリックに関することを例として述べているのだが、カトリックを他の信教や信条に置き換えても当てはまるべきことで、信教の自由に関することである。どのような医療施設でも患者本人が望めばスピリチュアルケアが受けられるようになってほしいとの希望であり、提案である。
1.カトリック信徒が医療施設において、特に命に関わるような重篤な状態にある時、カトリック教会からの援助を受けられるよう「カトリック信徒証明書」を身に付けることを勧めること。
*証明書の例参考
2.公にカトリック司祭(宗教家)の公私立医療施設訪問許可を正式に願うこと。同時にカトリック司祭は公私立医療施設訪問のための基本的な教育、訓練(例:臨床パストラルケア)を受ける制度の導入…。
それに対する返事は次のとおりです。
…カトリック信者が入院する場合に司牧援助を受けられるような証明書や一般の医療施設において訪問許可を正式に願うなどの行為を行ってしまうことは、却って公私立医療施設との関係を悪化させ、病者に対しても司牧を行いにくくなる状況となり得る…
その返事を読むと、私の提案に対して賛同は得られなかった。このように多くの場合、上手くいかない、希望通りにならないのが現実である。しかし現実は現在に留まるだけではなく変化していくものである。可能性を秘めた現在から希望が生まれ道が拓かれて行くと信じている。
~うまくいかなくても やってみよう~
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1: 注意:1294年、自由意志によるローマ教皇として引退したツェレスティネ(Celestine V)5世に次いで、719年ぶりに自由意志によって生前退位し、名誉教皇となった。生前退位したグレゴリー12世は自由意志ではなかった。
2: ドイツでは高校卒業試験は日本の大学入学試験と同じ。それができたら、どこの大学や学部にも入れる資格を獲得する。現代は違って、この試験の成績 1~6によって受験する学問が決定する。例:医学部の場合は1~1,5の成績がなければ入学しかできない。
3: その後、理由は分からないが、「卒業試験を受けてよい」と校長先生から告げられた。
4: 4月1日BBC.
by pastoralcare-jp
| 2013-05-10 17:11
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