IE9ピン留め
スピリチュアルケア誌54号 2012年1月
※年頭所感
叫びに気づく : わたしたちのチャレンジ・出番

ウァルデマール・キッペス


 プロローグ
 「自他の心と魂を育む協力者各位 
 チャレンジの多かった2011年、最後の日にあたり皆様に感謝のことばを一言申し上げたいのです。特に東北の震災と人災による苦難を背負っている方々、東北の皆様との連帯感をもって東北に出かけてご協力されている方々に『ありがとう』をお伝えしたいのです。
失ったことを元の通りにはできませんが、今の状況を積極的に生きられる力と勇気がありますように希望し、期待しています。
 2012年、いつ、どういうハプニングがあるかは誰にも分かりませんが、互いに心を合わせることができます。 『自分しかできないこと』を活かすことは、社会や世界の心のリニューアルのために、なくてはならないことでしょう。ご自分なりに心と魂の大切さを社会に意識化してくださいますように願いつつ--」
 以上は2011年末にセンター会員にe-mailで送ったメッセージである。

 昨年のお正月は「明けましておめでとう」という挨拶を多くの人々が交わしたことだろう。だが、希望した「明るさ」は2ヶ月ちょっとしか続かなかった。3月11日を境にして少なくとも東北の人々にとっては想像した明るい年ではなかったであろう。多くの人々は予想し得ないほどに変えられた状況の中で、今年のお正月を迎えたのではないだろうか。そんな中で「明けましておめでとう」という挨拶を交わしたかどうかは分からない。しかし東北の人々がどのように暮らしているかよりも、どのように生きているのか、いわば今の状況を生きる力とは何であるかを探り、たとえわずかであってもそれを育んでいくことを手伝うことができれば良いと思う。

 ① 叫びを聴き、それに応えること
 ・一人の患者の訴え
 「患者の権利として、患者の立場に立ったケアという面からもパストラルケア(=スピリチュアルケア *1)を考えて欲しい。…病院は患者のためにあるのではなく、医療関係者の利便のためにある。…私は、日本の病院の現状が治療や、癒しを与える場ではなく病人を作る場になっているのでは、と医師や看護師に訴えました」という、このe-mailの発信者は、がんの大手術の体験者。
この訴えはわたしたちセンターへの注文でもある。自分の生き方を通して、医療界に心と魂の育成の大切さと有益さを伝達していくように、という課題を提起している。

 ・医師の叫び
 -自然科学の限界
 
 昨年10月、福島県立医科大学救命救急センターの若い医師に初めて出会ったときのことが強く印象に残った。彼は全身をふるわせて叫んだ。「これは自然科学の限界だ。どうしよう。哲学の勉強を始めました」。医師としての心、自身の全体を生かすスピリットへの願いと叫びをこのように聞いたのは初めてであった。 スピリットに生かされているスピリチュアル・ケアワーカーは、わずかであってもその存在を通して医師を援助できる。自らを生かすことのできるスピリットを、今こそわたしたちが証明するときだ。
 ちなみに、昨年秋、2012年度の臨床パストラル教育研究センター全国大会の講演者としてこの医師を薦めると「来年(今年)の6月には福島のことは公(世間)ではもう忘れられている」と言われ、私はショックだった。衝撃的な震災と人災による心の傷が、わずか一年余りで消えると思うのはグリーフの深さ=心の痛みを理解していないのではないか。

 -患者のアフターケア
 昨年4月札幌で、肝臓移植で著名な医師、藤堂省教授に初めて出会った。彼はアメリカのピッツバーグPittsburg大学で肝臓移植の教授としてめざましい活動をし、その後北海道大学に呼ばれて肝臓移植専門教授として活躍してきた。藤堂氏は「アメリカでは肝臓のドナーとその家族およびレシーバー(移植を受ける人)へのアフターケアはチャプレンがしました。日本ではこういう制度がない。臨床心理士は週に1回勤務することになりましたが、臨床パストラル・ケアワーカーが必要です。そのためにはまず『医者のネットワーク』をつくるとよいでしょう」と力強く訴えられた。ここでも自然科学の限界が見える・・・。
自然科学のみの教育を通して医師になったほとんどの者は心と魂の存在を認めにくい、というよりもその領域を体験していないために認識しにくいと言えよう。そのためにはその領域を意識し、少しでも体験している医師を見つけ、「医者のネット」を繋げていくような呼びかけが必要であろう。まずセンター会員の医師をはじめとして、一人でも多くの医師に働きかけることが今後の課題となる。

 ・生きる力への叫び
 -自死:周囲が気付けなかった叫び
 50代の奥さんは仮設住宅から海に入水、親を震災で失った10代の男性は親の遺骨をもって海に飛び込んだ。昨年の10月から12月の三ヶ月の間に、40代の二人の男性の自死(二人とも身体的な病気はなかった)の知らせがあった。出張中の12月、東京の山手線では2回も人身事故で電車が動かなくなった。車内の電光掲示板には「人身事故」が頻繁に流れているが、何の影響も受けていないかのような乗客の様子にわたしは驚いていた。もう慣れているのだろうか。彼らの叫びに誰か気付くことがあっただろうか。

 -教育「生きる根本、命の源泉を考える/教え(られ)ない」私の叫び
 私は昨年10月、ある小学校で4~6年生とその保護者に講演させてもらった。この小学校は少人数でアットホームであるが、中学は近隣校から生徒が集まるため大人数になり、さまざまな問題(例:自分の意見が言えない)が起きることが予想される。そのために力になることを教えて欲しいと言われたので、「あなたが大切 Only One」をテーマにして「自分しかできない」ことを生徒に書いてもらい、それを考えてもらった。だが「命の源」について話すことは制限されていたために悩んでいた。“親に対する感謝”は取り扱えても、母子家庭や親のいない子供もいるので簡単ではなかった。(前もって尋ねると、10人の母子家庭と母親がいない生徒がいた。)「命の源」は母親でも祖母や曾祖母でもない。命自体は授けられたもの(プレゼント)であり、人間が造ったものではない。ところがこうしたことを公立小学校で教えるなら、すぐに宗教ではないかと言われる。すると子供は生きるための根本的な事柄に触れることなく、生きるベースを知ることもない。
 自死の多くの原因が生命の源への理解不足から生じるものではなくても、自死へ与える影響力は重大なものである。これこそが私の叫び。 命の源、生きる力、生きる意味と目標は人生の中心課題である。われわれはそれを意識し、生き方によって周囲に証しすることが大切である。日常において最も意義のある課題だと思う。

② 叫びに対する応答
 ・ 社会全体としての課題
 マスメディアは社会の価値観を反映している。例えば、年末年始の朝日新聞のトップページには次のような見出しが見られた。
 「ユーロ一時100円割れ ~10年半ぶり再安価~」(2011年末)、
 「原子力安全委側に8500万円 ~06~10年度24人、業界から寄付」(2012年元旦)。
 このような経済に関する出来事は大切であっても、人生における心の叫び、いわば生きる源、意味や目標への援助としては限られた価値しか持たないと思われる。例えば、昨年、自死した有名人(作詞家、漫画家、会社社長、政治家、元プロ野球選手、ミュージシャンやアイドル/タレント)*2  は15人ということだが、おそらく、これらの人々にとって経済問題は中心課題ではなかったと思う。そのためには、社会が生きる源、生きる目的、生きる意味などを意識化し、教育に反映させていくことをわれわれは働きかける必要がある。

 ・スピリチュアル・ケアワーカーの課題
 自分の人生を希望どおりに変えることはできない。まして地震や津波などの自然災害を人間が支配できないために人間は窮地に陥る。しかし人間のこの無力さが人間社会の中心課題として取り扱われることはなかった。人間は無力であり万能ではない事実を認めて、人生を積極的に(可能な範囲内で)生きるためには、このことこそ経済問題などよりは中心的課題であると理解すべきである。
 また、同じ元旦のトップページに「『リスク社会に生きる 迷いながら 去る人 残る人』つまり『放射線への不安からドイツに逃げた親子と、故郷への思いを断ち切れず福島で暮らす人々。去るも残るもリスクを抱える。人々は迷い、ぶつかり、自らの道を探す』」という記事も載っていた。これは、生きることはお金だけでは解決できないという心の叫び、自分自身を生きることへの欲求を表しているのではないだろうか。リスクを生きるかどうかは個人の選択の問題である。大自然の状況を理解するには、自然科学者の知識を聞いて個々に判断を下すほかはない。しかしそのとき、聴く耳をもち、共に考え、現実を弁えるための信頼できる同僚が欲しい。その同僚とはアドバイスをする“先生”ではなく、選択する過程で必要に応じて相手の自己決定を助けるようなスピリチュアル・ケアワーカーである。
 スピリチュアル・ケアワーカー自身は、根本的な課題である生きる源、生きる意味とその目標を日常の生き方の中で常に追求する者でなくてはならない。
 ・何によって生き、
 ・なぜ生き、
 ・何に向かって生きているのか。
 これら三つの課題に対する答えを、スピリチュアル・ケアワーカーが意識的に生きる中で得ようと努力する英知や知恵は、ケアするためのベースになる。そのとき、最終的には一人ひとりは自分の能力に応じてその三つの課題への答えを体験に基づいて得るほかないが、その課題を追求するとき、同僚の存在は支えとなる。 だが、学ぶこと即ち自分で考えることは、他者への依存ではなく独学すべきものであることを忘れてはならないだろう。
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1: 筆者としての解釈
2: http://ja.wikipedia.org/wiki/

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NPO法人臨床パストラル教育研究センターのビジョン

ウァルデマール・キッペス


 年頭所感で述べたような日本の現状に鑑み、当センターのビジョンを再確認したい。
1)センターのビジョン
 -相互に尊敬し合い、心身ともに成長すること
 社会にスピリチュアルケアを提供するには、わたしたちが互いに尊敬し合うことが基本となる。そして相互のタレントを認め合い、活かすことが大切である。例えば、誰でもが患者訪問をできるとは限らない。だが、患者訪問をできる人を援助し、励まし、肯定し、活かし合うことはできる。また、訪問できる人もそれを可能にしてくれる人に対して感謝して接することによってセンターは多様性のある一つの有機体になる。当センターが社会において「生きるモデル」になることを目指したい。

 -癒し主 イエス
 センターの中心思想である「癒し主 イエス」は他者からの厳しい体験によって心が堅くなった者ではなく、他者を受け止めてゆるす者である。イエスはアイコンタクトによって、相手に「あなたは欠点があっても価値のある人間だ」ということを理解させることができた。これは癒しである。
ちなみに何かの病気を治してもらった人が必ずしも癒されてはおらず、逆に病気やハンディーを患っていても癒された人がいることを理解すべきである。「病気を治してもらうこと」と「癒されること」とは異なっているのである。

2)このビジョンを踏まえてセンターの今後の活動
 -認定者の活動と生活の保証
 センターにとって以前から重要な課題になっていることは、認定者の活動の場所を確保し生活の保証が得られるように援助することである。認定者自らが得た資格を自発的に活かし活動の場を見いだすように奨めると同時に、センターとしても認定者が活きる場を獲得できるように社会に働きかけることが重要である。 この点について一つの意義ある動きとして、センターが昨年「日本スピリチュアルケア学会」の賛助会員になったことが挙げられる。 当センターを含めたいくつかのスピリチュアルケア教育研修機関(組織)がスピリチュアル・ケアワーカーの資格認定制度について話合い、学会を中心にしてある程度日本での統一基準のようなものができないかという議論が開始された。これはただ認定制度だけに関わることではなく、今まではセンターがいわば単独で社会に対していろいろ働きかけていたのだが、今後はスピリチュアルケア学会を中心にして各機関が協力することによって社会への働きけが更に強力なものになることが期待される。

-研修病院の増設
 現在5つの研修病院がある。このために年間に開催できる研修会の頻度に限りがある。受け入れて下さる病院を増やすことが急を要する課題である。 この為には5日間研修会のできる病院ばかりではなく、研修生が単独で患者訪問することを許可して下さる病院をも開拓していく必要がある。 現在、いくつかの病院(鹿児島、札幌など)と交渉中である。

-医者のネット
 年頭所感でも触れたように、「スピリチュアルケアに関する医者のネットワーク」作りに取り組んでいる。 現在のセンター会員である医師の方々からのこの取り組みへのご協力を期待している。

-ホームページのリニューアル
 社会に対するセンターの窓口はわたしたち一人ひとりの会員である。 今後とも会員一人ひとりの社会への働きかけが重要なことに変わりはない。 しかし同時に、最近ホームページを通じての社会との関わりの重要性がきわめて増強してきたことも事実である。 ホームページをより良いものにして、社会に意義のあるわれわれの活動をさらに的確に伝えるべく、リニューアルプロジェクトに取り組んでいる。ホームページに関するご意見を歓迎するとともに、リニューアルプロジェクトにご協力下さる会員を募集している。

心と魂のケアは
  私たち会員ひとり一人の
    毎日の挨拶から
# by pastoralcare-jp | 2012-01-30 14:59 | 記事 | Comments(0)
スピリチュアルケアの勉強室 13
怒 り*1

ウァルデマール・キッペス


 人生が思うとおりにならないとき、怒りが表れてくるのは自然である。例:福島の原発問題、「アラビアの春」を代表する国民の要求など。怒りはこのような不正や不愉快な状況に対する自己防衛の一つの反応と言える。そして怒りは人間である以上切り離せないfeeling(感情と情緒)の一つである。怒りにはポジティブおよびネガティブなものがある、と言うより二つの取り扱い方があると言った方がよいであろう。
◆ 怒りはfeeling
 feeling そのものは
・価値判断すべきではない。feeling そのものは道徳的なものではないからである。
・各人は自分のユニークな feeling をもつ権利がある。
・自分のfeelingとその表現に関して責任をもつこと。
・自分自身の feeling を正当化しないこと。feeling は身体をもつことと同様だからである。
・苦しい、あるいは否定的な feeling を自分にとって良くないものと評価しやすい。そういう傾向にならないこと。
・Feeling を抑制し、無視することは人格形成のために最も不健全である。
・Feelingを表現することによって真の人間関係が生まれる。

◆ 怒りのfeelingの表現
 怒りのfeeling(他のfeelingに関しても同じことが言える)に対して、人は二つの態度をとることができる。一つは、その怒りのfeelingに責任をもって建設的に表現することである。もう一つは、その怒りのfeelingを意識的に抑制することである。怒りのfeelingは取扱いにくく、取り扱い方によって人間関係を左右し、場合によっては関係を壊してしまう恐れがある。
 怒りのfeelingを建設的に取り扱うポイント:
 ・怒りのfeelingを意識すること。
 ・自分の怒りは自分のものとして受けとめ、認めること。
 ・怒りのfeelingの責任を取ること。
 ・怒りのfeelingの原因を追究し明確にすること。
 ・怒りのfeeling を体験するとき、その原因を他者のせいにしないこと。例:「あなたがヘりくつを言うから怒るのよ」。
 ・怒りを正しく伝えること(自分が体験している怒りのfeelingとそれを表すことばが一致すること。例:ひどく傷つけられて怒っているのに、笑いながら「平気、平気」と言って怒りを軽視したり、否定したりしないこと)。

◆ 怒りの抑制
 抑制とは、意識しているfeeling、思考、観念などを意図的に意識の領域から前意識の領域へ追いやろうとする心理的行為である。したがって、一度抑制した心(理)的内容を、随意的に、再び意識化することができる。
 「抑制」と「抑圧」とは異なる。「抑圧」は、無意識のうちに、認めたくないfeeling、思考等を無意識の領域へ押し込めてしまうもので、随意的に意識化することはできない。この点で抑制とは異なっている。
 Feeling(思考もそうである)を抑制することはできても、無くすことはできない。抑制されたfeelingは意識化されずに放置されると、無意識的に違った形で再び現れる。この変装したfeelingは、その原因が非常に分かりにくく、そのため人格に統合することができなくなり、健全な人格形成の妨げとなる。
 怒りのfeelingを抑制する一つの思考は次のとおりである。“相手を不愉快にし、相手との関係が悪くなり、場合によっては関係が壊れてしまうかもしれない”。だが、事実は反対である。怒りを抑制すれば、その時は何事もなくても、結果的には自他との関係は逆に悪くなる。抑制された怒り(他のfeelingも同じ)は、心理(精神)や肉体を緊張させ、心身共に悪影響をおよぼす。また、抑制を長く続けると耐え忍ぶことが不可能になり、何らかの形で、その抑制された怒りが突然現れ発散することもある。(例:ほんの些細なことでも突然大声で怒鳴ってしまう。)こうした時、相手はもちろん当の本人も驚き、当惑し、その結果自分に対する怒り(例:こんなことで怒鳴ってしまうなんて、私はバカだ)が生じてくる。相手もまた、その訳のわからない怒りに驚き、怒りを発散させた相手に対する怒りが生じてくる。
 このような抑制した怒りの突然の発散(または爆発)は、身体を傷つけ合うけんかになり、最悪の場合は殺人という結果になることもある。怒りのfeelingを抑制しそのまま放置しておくと、必ず自分や相手に何らかの形で害をおよぼすことになる。そのため、怒りのfeelingは抑制せずに(抑制してしまった場合には、再び意識化するよう努力する)、人格の成長のために建設的に表現し取り扱うべきである。
 人格の成長と成熟は、はらわた(gut level)での feeling の多様性と深さにある。つまり愛から憎しみまでを自分のものとして認め、それがあってもよいという開かれた心を含むものである

 追記
 ・動物は怒りのfeelingをもつ。
 ・聖書によればの神は怒りをもつ。(例:ヨハネによる福音書3章36節)
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1: ウァルデマール・キッペス 「ともに生きる –人間関係とコミュニケーション-」サンパウロ2003、頁 240-241, 288-290 参照
# by pastoralcare-jp | 2012-01-30 14:40 | 勉強室 | Comments(0)
スピリチュアルケア誌53号 2011年10月

活かせる力 対 滅ぼす力


ウァルデマール・キッペス


 先月(2011年9月)の16日間に、講演三回、3日間研修会一回、2日間研修会三回をさせてもらった。その後、年輩の知人の一人に電話をかけてそれを言うと「ゆっくりして、休めば良いのではないでしょうか」と言われた。わたしが「来世で休みます」と応えると、彼は「あーそういう考えもありますか」と不思議そうに驚いた様子で答えた。
 被災地の仙台で開催した「無力を生きる力」の研修会(傾聴に関する仙台地区特別研修会)には仮設住宅から二人が参加した。一人は前向きで、もう一人は辛い顔の表情で頭を下げていた。わたしはその方のTシャツの背中に書かれていることばに驚いた。「Live Life to the Full(精一杯生きなさい)」。胸には「Holism(全体)」と書かれていたからである。その方はTシャツのことばに気づいていなかった。それが偶然であるかどうかは別として、研修テーマにぴったりと合い、すべてを失った本人にもインパクトを与えた。「生きること」への刺激であった。 
 この16日間最後の研修会が開催された札幌で、JR札幌駅構内のポスター展示会(復興の狼煙・ポスタープロジェクト・東北 展示会)に出会った。「一緒に悲しむことよりも、あなたの仕事を一生懸命やってほしい。それが沿岸を、岩手を元気にする力になるからである」。瓦礫をバックグラウンドにして人々を撮ったポスターのことばは、「埃も泥も、思い出にする」「もうふざけんじゃねえぞ」「かじりついてどこまでも」「続く未来に胸張れるよう」「心まで壊されてたまるか」「仲間が力だと、わかった」「かわりに気づいた宝もの」「あの日と闘い続けて行く」「甘くみるなよ、大槌人だ」「それでも今日も海を見る」「忘れたいけど覚えておく」「ひとつひとつ咲かせるよ」「瓦礫を、踏み台にするさ」「被災地じゃねえ正念場だ」「此処でなきゃ駄目なんだ」「余計な言葉は無くていい」「これからを、取り戻す旅」など。ちなみに、もし岩手の被災者が「よく勉強し、優秀な学校に入学し、生活を保障する会社に入社し、家柄のよい人と結婚して家庭を築き、勤勉に働くことで安心して老後を暮らせる」ような、生きる目標に向かって生きてきたなら、ポスターのことばのような生き続ける目標は持てないであろう。

 生きること
 活かす力について論じるに当たり、まず「生きること」を定義する。筆者にとって生きることは「自他が、自然と超自然と共に存在でき、言わば“存在そのもの”の一致(統合)へと自分に与えられている能力を、責任をもって良心的に精一杯利用することである」。筆者にとって生きることは日々の闘いを要求される成長へのチャレンジやチャンス(活かせる張り合い)でもある。この定義は全ての人に共通しているわけではないのは当然であろう。ある人にとって生きることは贈り物であり、他の人にとってそれは自分だけの所有物、又他の人にとっては重みである。

 活かす力
 生きることは静的ではなく能動的な要素/実存である。従って生き続けるためには力が必要とされる。筆者にとって「活かす力」とは、「自他、自然と超自然が一つの統合されている実在、存在になるようなモーターや舵である」と定義する。具体的に言うと、自分が生きる目的に向かって生きているか、それとも日々の繰り返しの中で人生の生きる意味を見出せずにいるのか、それを定期的に再確認したい。それは自分の生き方が自他を活かす、生きる希望を起こさせる、そのきっかけになっているかどうかの確認でもあろう。最も大切なのは生命(力)そのものが成長・開花することであり、破壊と滅び、言わば死を目的としないことを強調したい。

 ある人物の思考や実際の生き方によって示された生きる力、および「人間を最も活かす力(活かして欲しい力?)」として現代人に影響を及ぼしている数人の考えを紹介する。
・哲学者A・ショーペンハウアーは「生きることへの意志」 (1813年発表) を、
・精神分析学者S・フロイトは第一次世界大戦前まで「快楽への意志」(Eros、libido)を、戦後は「死への意志」(Death instinct)を、
・精神科医、心理学者、社会理論家であるA・アドラーはF.W.ニーチェの影響によると言われる「パワーへの意志」を、
・精神科医、心理学者のV・ フランクルは「意味への意志」を 
人間を動かすパワーだという仮説を立てた。
 強制収容所での体験に基づいたフランクルの学説に説得力があるように、M・ガンジーを活かした「真理の追究」やマザーテレサを活かした「神の御心、即ち全力を尽くして人(や資源)を大切にすること」などは人間を活かす力として納得できることである。
 今、日本国民を動かす力は「安心への意志」だと考えることも出来よう。日本人の特徴でもある「調和」は「安心」への手段であり、そのために自分の意見や希望を後回しにするのである。「調和」を守ることによる報いは「甘え」だと考えれば、「甘え」は調和のために尽くすことで生じる心理的緊張感やストレスのバランスをとってくれる。「調和→甘え→安心」のように。
 
 以上の考えを参考にして日々自分を実際に活かすもの(力)は何だろう、と正直に分析してみよう。筆者にとっては内面的な動きをわきまえながら、的確な心と魂のケアができるように全力を尽くすことである。「(身体的な)健康が第一」ではなく、「目標が第一」として目標を追求することであろう。目標に向かって全力を尽くすには、エネルギー(健康)や能力、時間や所有物(所持品)を絶えず集中させる必要がある。それは内面的な闘いを伴っていることは言うまでもない。

 自他を活かすための根本的な行為は自他に対して真心で相手となることである。筆者にとって毎日鏡に映る自分としばらくの間アイコンタクトを持ち続けることは、自分をありのままに受け取る手助けになっている。それは時によっては、例えば、自分が目標から離れたときなど、辛くて厳しい出会いになることは予想しやすい。自分を受容する訓練は気に障るような他者をも受け取り、認めようとする手助けになる。また患者訪問のときにも支えになる。患者をありのままで受け止めようとする努力は癒す力を持ち、患者に人間としての品位を与えるからである。だがそれは、関わる人間が患者の人格や人生観などを必ずしもよしとする意味ではないことを言い添える。(例:麻薬によるエイズ感染された人を尊重するが、その生活様式を肯定することではない。)

滅ぼす力
 自分を動かす力のすべてが納得できるものでもないし、安心や平穏な社会と世界をもたらすものでもない。ポジティブなパワーもあればネガティブなパワーもある。上述したフランクルの「意味への意志」はポジティブ、フロイトの「死への意志」はネガティブなパワーになっていることも例外ではない。なぜ震災を受けたある人は「それでも今日も海を見る」と言い、ある人は「もう海は要らない」というのか。なぜある人は相手を殺し、ある人は命をかけて犠牲者を助けるのか。なぜ国民の多くは長生きしたいと願っていながら、一方で10年以上続けて毎年30,000人以上の人が自分の手で自分の寿命を絶ってしまうのか。
 人間を動かす力には活かす力もあれば滅ぼす力や殺す力も少なくない。国際テロ組織のアルカイダやオウム真理教を動かし、活かしているパワーは別として、社会や自分を動かす力には、安心や平穏、調和や秩序を破壊しようとするものもあるのは明らかであり、自分の内に活動しているパワーは様々であろう。本能、衝動や欲求、成功や出世欲、勘、やる気や無気力、性質や素質など心の動きのすべては必ずしも善をもたらすものではない。挨拶しないことや他者を無視すること、妬みや嫉妬、許さないことや復讐、傲慢や虚栄心、どん欲や贅沢、依存(麻薬、ドーピング、ギャンブル)、出世と成功、金儲けや「我先に」などの動きは、容易に理想的な生き方を援助してくれるものではない。「快楽への意志」「死への意志」「パワーへの意志」の力と、それらから生じてくる破壊を熟考してみる必要がある。福島第一原発の事故は、建設可能なものであっても建設後それをコントロールできるかどうかを、建設の段階において良心的に熟考すべきという教訓を与えてくれた。アフターケアが困難であるにもかかわらず、可能でさえあれば建設するというわけにはいかないのである。

 ちなみに生きる、活かす力の反対語は滅ぼす力である。と言っても、対象によって表現は異なることを言い添える。例えば、
・人を内面的に活かす、に対して人を「だめにしてしまう」
・人を活かす、に対して人を「殺す」
・体験を活かす、に対して体験を「無にする」
・食材を活かす、に対して食材を「無駄にする」
・才能を活かす、に対して才能を「壊す」
などである。つまり何を活かすかによって使われる言葉は変わってくる。

 自他を相手にしないこと、無視することや軽蔑することは自他を滅ぼすことである。筆者が遊んでいるアメリカ人の子供を眺めていたときのことである。リーダーとして振る舞っていた子供がある仲間に「You are nobody! おまえなんか、数に入ってないよ!」と、びしっと言ったことが記憶に残っている。現代社会を「無縁社会」、「孤族の国」、「自殺大国」と言い表す用語は、滅ぼす力によってネガティブに活かされた事実、現実を描いている。

最後に
 シベリアで捕虜にされた二人のドイツ人の兵隊。一人は戦場に行く前に奥さんに「クリスマスに戻ってくる」と約束したことによってシベリアから逃げ、イランを通ってドイツに帰った。1回目は再び捕まってひどく罰せられたが2回目に成功した。
 もう一人は同僚の兵隊の偽証によってシベリアに引っ張られた。そのため自分を偽証した仲間に復讐するためにドイツに逃げるという計画を立てた。だが、偽証した人は同じシベリアで捕虜になり、死んだことが分かったため逃げる気力を失った。
 目標の善し悪しには関係なく、目標があることによって行動する力が生まれる。(例:現在の「アラブの春」)
# by pastoralcare-jp | 2011-11-01 15:09 | 記事 | Comments(0)
スピリチュアルケアの勉強室 12
笑顔 対 本者の顔 (心が入っている顔)

ウァルデマール・キッペス


 ことばはさまざまな形で伝えられる。口から出ることば、書かれたことば、ジェスチャー、ボディランゲージ、頭や心の中で聞こえてくることば、絵や自然の中からの無言のことばなどである。目付きだけでなく人の顔の表情もまたそうである。

 医療施設内の医療従事者向けの掲示板で気になることがある。そこに「笑顔」のポスターを掲示しているところが少なくない。医療従事者も人間であり、笑顔を絶えまなくは持てないはずだろう。(例:結婚式場の宣伝用チラシに描かれた花婿と花嫁の笑顔、飛行機内の乗務員の笑顔もパーマネントではない。日常生活での男女の顔を観察すると、食堂のウェーターが調理場で立っているときや機内の乗務員がカーテンに入る瞬間など、笑顔に限界があることがよく分かる。)それでも確かに人によって表情が変わるような「お天気屋さん」は患者と関わるには的確ではないだろう。と同時にずっと笑顔を見せる人は却って不自然な印象を与えることも事実である。

 喜びの時には喜びの、悲しみの時には悲しみの、成功した時には嬉しさの、うまくいかず期待が裏切られた時の表情など、どれもが千変万化の人生を表していて自然である。まして告知をする時、告知を受けた人に向かう時、死亡した人を見送りする時、苦しんで叫んでいる人に対しても笑顔にはならないだろう。
患者は疲れた顔の看護師や決断に困った医師の顔を見たならば、仲間意識を持って医療従事者を助ける気持ちが湧いてくることも例外ではないだろう。「あー、先生も疲れている」と思い、医師に対する種々の要求度合いはバランスがとれたものになり、自分が単なる弱者ではなく医療従事者を助けられる者であるとの感覚を持てるかもしれない。食堂のウェーターや機内の乗務員に対する要求も適切になる可能性が大きい。自分も相手もどんな場合にも変わることのない無機的なものではなく、変化を通して生まれ、生きる有機体であるからだ。

 本物の顔は健全な人間関係を生じさせ、自他を癒してくれる機能も持ち得る。

 備考*マザー・テレサのトレードマークの一つは笑顔だった。マザーが内面的な苦痛や孤独にもかかわらず笑顔を見せた理由と動機は、イエスに傷をつけたくなかったためだという。*1

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 1: Brian Kolodiejchuck, M.C., MOTHER TERESA, Come be my light : The Private Writings of the “Saint of Calcutta,” Doubleday, 2007 参照
# by pastoralcare-jp | 2011-10-19 16:37 | 勉強室 | Comments(0)
スピリチュアルケア誌52号 2011年7月
「がんばろう 東北」 より 「生きよう 東北」


 今月の7月8日、宮城県の仮設住宅に住むある母親(Aさん)と(Bさん)のやり取り。
 Aさん:「(この前)家(の跡)に戻ってみたら・・・玄関のそばに竹や紫陽花が元気に咲いていた。植物は強いね!」と同じ内容の話を繰り返す。
 Bさん:「お母さんも強いです。」
 Aさん:(手をたたいて笑顔になり)「強い!」

震災の出来事を美化したりそれからの逃げ道を探すのではなく震災より得た力を活かすことが大切

 震災によって命以外の何もかもを失った人々は、そこから生き続けるための厳しいスタートラインに強いられて立たされている。 震災当時は自分や身内、ペットが危険から逃げ、生きるために本能的に行動したであろう。そして避難所を見つけ、身の回りに残っているものを整理し、最小限のもので生活する工夫をするということになったであろう。喪失によるトラウマ、将来への不安と心配がこれからも継続していくのは当然だと思われる。震災によって失われ、もう二度と手にできない事実は悲痛で、情けない、失望しやすい現実である。そこにその辛さや悲しみを叫ぶ場(とき)が提供されるのは必然的なことであろう。同時に悲痛には度合いがあることを意識したい。この惨めな状況をさらにマイナスにしないように気を付ければ益になる。マイナス思考の一つは「失った事柄」に中心を置くことである。「misery loves misery 苦難は苦難を欲しがる」という諺はその危険性を意識させてくれる。困難に共鳴するのは惨めな状況をよりエスカレートさせることになるのも例外ではない。「わたしたちがみな文句ばかり言うならどうなるのか」という戦争中のドイツでのスローガンを思い出す。不平は不平を増加させるのである。

 日常会話で自他を滅ぼし、殺すことになり得る言葉の例を下記に挙げる。
「運が悪かった」「運ですから仕方がない」「無理」「できません」「どうせ~」「生まれつき(DNA)」「仕方がない」「大変ですね」「もう歳だから」「(言い過ぎる)頑張りなさい」「我慢しなさい」「忘れたほうが良い」「一生懸命やればできる」「世の中はこういうものです」「ふつう(一般的に)はこう」「みんなそう」「あなただけじゃない」など。

 東北のある避難所に行ったときのこと。案内してくれた一人の責任者はわたしたち数人に、地震と津波があった状況を長い時間をかけて詳しく分かち合ってくれた。そのときの話しのなかで「甘かった」という言葉の繰り替えしが記憶に残った。さらに話を続けるにつれ雰囲気はだんだん重苦しくなっていった。そのとき「力になったことは何だったでしょうか」とわたしはその話を遮ってしまった。その瞬間、語り手の顔が生き返ったように変わったことは印象深かった。困難のとき、力になることを自分が発見でき、もしそれらが自分のものであるなら内面的なエンパワーメントになり、「自分ができる」人であることを再確認させてくれるというプラス面がある。プラスの面やできたこと、特に独学でできた/できる事に焦点を合わせることは相手を活かせる行為になる。

 生きること、生きていること、いわば今できることを中心課題にする一つの方法は、自他が震災によって「失ったもの」ではなく「得たもの」に焦点を合わせることである。それらを明確にし、意識しながら保ち続けるようにしたいものである。特に震災によってしか得られない「心の質」を話題の中心課題となるように努力することは心の状況を改善させ得る。というのは災いや災害によってしか得られない心の徳、いわばものごとの深みがあるからである。思いやりと協調、挨拶、当たり前と思っていることは当たり前なことではないという気づき、共に生きることや感謝はその例である。こうした心の宝物を失わないためにはそれらを書き留めるとよい。
本年5月に仙台市で講演を行った時、25名の方に「震災によって失ったもの・得たもの」をリストアップしてもらった。その中から以下に二人の方の例を挙げる。

 Aさん
 1.失ったもの
 たくさんの命・家・仕事・家具・動物の命・家財・笑顔・夢
 2.得たもの
 協調・前向き・命の大切さ・人の優しさ・感謝の心・優しい言葉・自分の体・自然のすばらしさ
 3.感想
 震災の後いろいろな学びを頂きましたが、あらためて書き出したときに教えていただきました。辛いこと、悲しいことより得たことを最初に書き始めた自分にびっくりしています。

 Bさん
 1.失ったもの:
 人の心、親戚、友人、深い絆とおもっていた人が意外とたんぱくだった事に気づかされた
 2.得たもの:
 人の心、親戚、友人、思いがけない方が親身になって心配してくだった
 ・地域とのつながり、近所の方々とお手伝いしたり、配慮されたり自然に深い付き合いができるようになった
 ・地域の方と声かけが自然体でできるようになった(しらない方とも)
 ・ちょうど震災時、犬が病気になり、生き物の生命に直面。我々も生きる事とは、考えさせられ自分自身が、これからどう生きるべきかを真剣に考えるようになった
 ・人から受けた思いに、素直に感謝、今までも感謝はあれど、もっと素直になった
 ・今の時間が大切、今の自分が大切、そして今の周りの人が大切と思うようになった
 ・あるがままの自分を受け入れ、世渡り下手でもいい、程よいいい加減良い加減な生き方に生きる目標ができた
 ・スピリチュアルで友達ができました
 3.感想
 今まで肩の力がカチンカチンと固くなっていました。キッペス先生のお考えを聞き楽になりました。頭が下がる思いです。考え方が変わる事で、これほど前向きになる自分を見てびっくりしています。先生にお目にかかれた時期も良かったと思いました。少し自分自身 整理つけられるようになっていた時期でもあり、今まで考えてもいなかったご意見にスッキリした思いになったのです。お目にかかれた事に感謝します。前向きになりましたが、時々まだ心が痛む時があります。

 震災によって得たことは、他では得られないものとして人生の宝物だと評価したい。それらを今後の生き方に統合させれば、心は深くなり、人生がより豊かになり得るであろう。厳しい現実であるが内面性は向上させられる。それは絶えまない協力であり、しかも闘いが要求されることは予想できる。例えば、損害を受けていない町の中にある仮設住宅で暮らす場合、目の前にマイホームで暮らしている人たちを見て自分自身の惨めさを意識し、悲しく妬ましくなるのも不思議ではない。だがそのとき、自分たちしかもっていない学びの体験(例:最小限度の生活)を意識したとき、内面的な力が湧いてくるのも意外なことではない。自分が質素な生活を送れるプライド。しかし自分の生活の惨めさを他者の幸福な生活様式と比較すれば、自分がなお心身共に弱り、マイナス思考に縛られる恐れも生じる。ちなみにこうした出来事から得た心の深さを活かし、持ち続けられるようなサポートはスピリチュアルケアから報われるプレゼントの一つであろう。

 終わりに
 直接に震災の害を受けたかどうかとは関係なく、今年の8月は例年のように広島と長崎で原爆投下の記念行事が行なわれるだろう。その時期を捉えて、約30年間(1966年~1997年の間)に亘り危険性の高い54基の原発が日本列島に建設されたことを(再)認識し、日常生活はどのように変わったかを反省したい。節電(原発の存在)と節水、生きることへの感謝と挨拶など、自分のできること、しなければならないことを意識したい。
 さらに、3月11日の震災によって「Pray for Japan」の声や「がんばろう 日本」の横断幕が登場した。今「Pray for Japan」は消えているようだが、「がんばろう 日本」のスローガンは少なくとも東北で生きている。「Pray for Japan」は、日本が命の源とのつながり・絆が回復されるように意識して“気”と“手を合わせる”ことに繋がる。祈ることは日本を活かせるパワー。「がんばろう 日本」より「生きよう 日本」の起因になることを信じ、心からお勧めしたい。

(Photo: Kippes)

# by pastoralcare-jp | 2011-08-02 15:49 | 記事 | Comments(0)
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