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希望をもたらす力 ウァルデマール・キッペス 人生は思うとおりにならない。思うとおりにならないとき、「それでも人生にイエス」と言ってやり続けるかどうかは、個々人の反省、判断に任せる。思ったとおりにならなかったとき/ならないとき、やり続けるための動機、力、励ましを得るためには、まずその目標を与えてくれた元(悟りやインスピレーションなど)を明確にすれば有意義になる。こうした行為は自分の心・霊・魂のセルフケアの具体化にもなる。あることを実現させ達成しようとする時、それは自分にとってどういう意義があるのか。もし意義があるなら、それに対する努力、協力とは何であるかを、ほんの僅かでも見つけようとすることは自我意識や自信を強め、確信をももたらしてくれる。同時に自分のことを明確にしたときに発見したコツなどは、人生を納得して(闘って)生きようとする他者へ、必要に応じ、参考として提供できるし、次の一歩を踏み出すための助けになるような機会ともなる。 ある事を達成するためには、多くの時間や能力、労力を必要とする。苦労、達成感、欲求不満などをもたらすであろう企画を、単にやらなくてはならない年中行事の一つであるとでも感じたならば、それに伴う苦労は受け入れ難いだろう。しかし、その企画を、納得できる人生のために少しでも有益なヒントや希望を生み出す意義ある企画として考えるならば苦労に値するのではないだろうか。心・霊・魂の力は日々の生活に意味や喜びを与え、忠実さを育む基であることを再確認させてもらえる場としてそのような企画の遂行を捉えたい。うまくいくかどうかではなく、その目的に対する意識化が中心課題である。 1.スピリチュアルケア 信念 対 単純な運動 意義のある納得できる人生を送るには五体満足、飲食やeventだけでは足りないだろう。忠実、約束を守ること、自他を育み活かすこと、助け合うこと、困難の中でも生きることなどは人間らしい生き方ではないだろうか。であれば、心・霊・魂の存在とその重要性を意識し、それらを育むことが人生で一番大切なことだと考える。 言い換えれば、心・霊・魂(スピリット)なくしては人間だとは言いにくい。日々の生活で問われている心・霊・魂の重要性を自信と確信をもって追求し、それを強く社会に訴える行為もスピリチュアルケアである(例:義務教育に心・霊・魂の育成)。スピリチュアルケアは単純な運動ではなく、信念に基づいている行為である。そのような意味で、スピリチュアルケア研究会、スピリチュアルケア学会、あるいは臨床パストラル教育研究センターの研修会などはスピリチュアルケアのリニューアルの機会でもある。 2.心・霊・魂の育成 ガンジーの生き方を思い出す。ガンジーの内面的な確信は「真理は勝つ」であり、「真理」を一生追求した。人間の根本的な権利は自主決定権利であり、人間は誰かの奴隷(機械)ではないこと、この真理がガンジーの信念を形成した要素であった。ガンジーによるイギリス支配からのインド独立活動は単なる運動ではなく、心・霊・魂に基づいている行為であった。テロや暴力ではなく、真理を追求することはガンジーの「非暴力」の土台とパワーであった。 ガンジーは真理を何によって(例:悟り、インスピレーション、教育)発見し、自己モットーにしたかは分からない。だが、ガンジーの真理を追求する方法は内面性の育成のヒントになる。ガンジーのカースト制度*1 に対する真理の実行(=心)は「アーシュラム」での共同生活で示した。独立に向かって、様々な運動を起こす前に、まず「真理の光」を求めた。この内面的な光が燃え上がるまでは日常を沈黙と断食のうちに過ごし、真理の光が燃えだしたとき運動に移った。そのとき運動に参加する人たちに「この運動のために命をかけなければ、参加するな。もし血を流す必要があれば、それはわたし(たち)の血でなければならない」と述べた。ガンジーの運動は無意識な衝動や衝撃からではなく、内面性に基づいたものであった。ちなみに、現在のインド国内でその心(精神)が薄れていても、ガンジーの狙いと方法は心・霊・魂のパワーを裏付けられる企てであったと言えよう。心の動きの原点を自ら意識し育成することは確信をもって真理を追求するための援助となる。 日常での心・霊・魂の現れ 他者に対する態度には日常の心・霊・魂の生きている度合いが現れるだろう。他者を相手にするか、それとも物・機械(機能を果たすもの)として考えているかは挨拶によって明らかになる。挨拶とは「他者の存在を認めること」と定義する。大勢の人がいるところや通り過ぎるところでは挨拶しないのは当然であるかもしれないが、人出の中で一人か二人にアイコンタクトやお辞儀できないことはない。人間関係は挨拶から始まる。日常の「こんにちは。元気ですか」「いいお天気ですね」「お変わりがありませんか」のようなフレーズは取っ掛かりとしてはよい。しかし、それらはあくまでも人間同士が真に出会うための出発点に過ぎないことを意識すればよい。その後の会話が人の関心事を表現する。そこで身体的健康(薬物、診察、検査)や食べ物、経済や社会に対する不満だけが話題の中心になれば、心・霊・魂の存在、その健康を意識していないのではないか。心・霊・魂が意識に登っているならそれらは自然に話題になるであろう。「梅の花」「桜が満開」「ひばりが鳴いている」「日が長くなった」のような不思議さを話題にする行為も心を伝える。また、無言の出会いであっても、他者への尊敬、感謝とは心・霊・魂からの表現を通して(食事前後の合掌、人に対する態度や目つきなど)伝え合うことができる。 「今日の目標」「困難を生きるコツ」「ご自分にとって心とは」「歳を取ることをどう捉えていますか(人生観)」などの問いかけは、自分自身と他者の心・霊・魂を意識させ、内面的な生き方への援助になるのではないだろうか。しかしこのとき、注意や他者を試すためにこのような問いかけをすることは不適切だと考える。 日常会話は個人の心・霊・魂に対する関心度合いや人間像を表していることが多い。 3.計画的でない現実 この記事を作成しながら、新幹線で京都から九州に向かっていたとき(4月3日)のこと。 京都から3時間半、暴風の影響で電車が広島で止まり、そこから進まなかった。(結果として広島で一泊した。)そのときの「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と繰り返し謝る車内アナウンスに考えさせられた。というのは新幹線にも限界がある。それは人間の過失ではなく、自然に対する現在の限界であり、人間(JR)のせいではないことを明確に表現して欲しかった。例えば「わたしたち人間の支配が及ばない自然の力ですので、今の状況をできるだけスムーズに解決できるように皆様のご協力をお願いします」のように言えないか。人間が万能ではないことに気づかせてもらえるような現実の体験は、内面への刺激になるのではないか。 人生が思うとおりにならないのは例外的なことではない。変えられることもあれば変えられないこともある。この事実を消極的、運命論的、仕方がなく認めるのではなく、理性をもって認めることは心・霊・魂のパワーを要求し、そしてそのパワーの有無を明確にしてくれる。自然に対する態度は場合によって社会制度に対する態度として要求されるときもある。現代のテロは、人間社会の成熟を理性をもって目指すことの困難さ、無力さを示しているときが多いと思われる。というのは人間に考える自由があるかぎり、皆が同じ考え方をもっていないのは当然である。この事実は家庭内の親子関係でもうすでに実感できるので、国会での議論、外交交渉や国連での議論の様子などを調べるまでもなく明らかなことである。こうした現実問題においてこそ、心・霊・魂のパワーの結集が急を要すると思われる。 4.現実の改善に先立つ思考の改善 上述したように運命論(仕方がない)や暴力・テロは理想的な生き方を生み出さない。また暴風に対してJRの役員を攻撃するのはナンセンスであろう。そして家族や人間社会を変えようと努力すれば理性に基づく計画・プランが不可欠な条件になるであろう。 もう10年間続いているアフガニスタン戦争はそれを物語っている。アフガニスタン問題は経済の問題より心・霊・魂、つまり信条と宗教に基づいた価値観の問題であろう。2002年10月7日にはじまった戦争は2001年9月11日のニューヨークのワールドトレードセンターへの攻撃に対する反応であった。当時、タリバン政権の下で、アフガニスタンはアル・カイダのベースとして考えられたからである。アメリカはタリバン政権を民主主義の諸原理と交換する計画を持ちましたが、10年後の今ではそれは間違った推測だったと言える。アル・カイダやタリバンの狙いは経済的な繁栄の制度やリベラルイスラム教国家ではなく、原理主義イスラム教国家を理想としてもっているようである。アフガン戦争の中心課題は国の経済機構、有機的組織ではなく信仰(宗教)、つまり心・霊・魂のもの(健康)である。 ちなみに現代の欧米諸国や日本はアフガニスタンと正反対のように思われる。多くの国々では内面的な健康よりも国の経済を優先しているのではないか。 現実の改善を目指しているなら理性による計画が必要である。その計画は内面性にウェイトをおけばスムーズに実現できなくても将来性がある。今、ミャンマーのスーチー師のことを思い出す。本人は1990年の選挙で勝利してから15年間自宅軟禁され、今年4月1日の国会補欠選挙で野党・国民民主連盟が圧勝した。「1962年以降、国軍中心の支配が続く祖国に民衆主義を打ち立てたいと願う」と師が言う。それは信念の強さの顕れであろう。「自分の人生を犠牲にしてわたしたちのために尽くしている。だからわたしたちも応えなければならない」とスーチー師を支持する人々は言う。 5.スピリチュアルケアへの各人の信念 だれだれの意見や思考を述べる人ではなく、心・霊・魂のケアに関する自己の信念を持って生きる人が望ましい。心・霊・魂のケアの必要性、育成や普及はWHOの宣言によるものではなく、各人の純粋な確信に基づいているものであってほしい。心・霊・魂の育成とそのケアは(ホスピス運動を含めて)何かの運動ではなく、人間の存在になくてはならない要素であり、その育成とケアのために苦労があるのは当たり前である。何かの善いものを追求するなら、必ずと言ってよいくらい困難や反対運動に直面する。このことは人生を意識的に歩めば自ずと分かってくることであらう。困難に出会ったときに「それでも人生にイエスと言う」のこそ、生きている心・霊・魂を反映している姿だと思う。 ----------------------------- 1: カーストは古い起源を持つ制度である。現在は1950年に制定された憲法で全面禁止が明記されているものの、実際には人種差別的にインド社会に深く根付いている。
使命感 成り立ち
ウァルデマール・キッペス 使命感の形成の過程には主として二つのタイプがある。一つは一般的なもの、もう一つは特別な起因によるもの。 一般的に人は生まれ、家庭や周囲/社会、学校での教育を受け、会社に就職し、社会人になり、結婚し、家庭を作り上げ、子育て、定年退職、親/伴侶の介護、そして人生を終了する。こうした過程の中で周囲に従って生きるか、それとも自分の内なる声に気づきながら行動を取るかが中心課題である。従って、一般的な信念の形成過程は次のように表せる。 A 一般的な使命感の形成 (家族 周囲/社会 学校 会社 結婚 家庭 定年後) 1. 家庭内(施設)の習慣や育成 ↓ 2. 周囲の習慣や教育/指導や影響 ↓ 3. 習慣に従うか 独自の方法(生き方)を見出すか ↓ 4. 習慣を生きる/自分の考えを追求し生きる ↓ 5. 困難に出会う ↓ 5-1 続けるか/変化するか ↓ 5-2 自分の内面的な声を聞くか/周囲に従うか ↓ 6. ルーツに戻り、アドバイスを受けるか/自己判断で続けるか or 止めるか ↓ 7. 人生の最後:完成・満足 対 失敗・不満 同様に、特別な起因による信念の形成過程は次のように表せる。 B 直接的に特別な使命感を受けた人の信念の形成 例:マザーテレサ 1. 悟り(を聞き取ること)、幻(をみること)、(霊感の)閃き、(内面的な)声を聴くこと ↓ 2. 受容 ↓ 3. 確認:考える (相談・アドバイスを求める) ↓ 4. 実行・追求 ↓ 4-1 方法(明確でない) 暗中模索する アドバイス/習慣によるもの (例:マザーテレサは祈り、告白と聖職者の指導ガンジーは沈黙と断食をした) ↓ 4-2 困難と闘いに出会う *理解者・協力者との出会いや状況の変化もある ↓ 5. 自信のある方法で続ける あるいは止める ↓ 6. 定期的な再確認:原点rootsに戻る・より頼む *応答を得る 確信をもつ もある ↓ 7. 成し遂げる・使命を果たす
※年頭所感
叫びに気づく : わたしたちのチャレンジ・出番 ウァルデマール・キッペス プロローグ 「自他の心と魂を育む協力者各位 チャレンジの多かった2011年、最後の日にあたり皆様に感謝のことばを一言申し上げたいのです。特に東北の震災と人災による苦難を背負っている方々、東北の皆様との連帯感をもって東北に出かけてご協力されている方々に『ありがとう』をお伝えしたいのです。 失ったことを元の通りにはできませんが、今の状況を積極的に生きられる力と勇気がありますように希望し、期待しています。 2012年、いつ、どういうハプニングがあるかは誰にも分かりませんが、互いに心を合わせることができます。 『自分しかできないこと』を活かすことは、社会や世界の心のリニューアルのために、なくてはならないことでしょう。ご自分なりに心と魂の大切さを社会に意識化してくださいますように願いつつ--」 以上は2011年末にセンター会員にe-mailで送ったメッセージである。 昨年のお正月は「明けましておめでとう」という挨拶を多くの人々が交わしたことだろう。だが、希望した「明るさ」は2ヶ月ちょっとしか続かなかった。3月11日を境にして少なくとも東北の人々にとっては想像した明るい年ではなかったであろう。多くの人々は予想し得ないほどに変えられた状況の中で、今年のお正月を迎えたのではないだろうか。そんな中で「明けましておめでとう」という挨拶を交わしたかどうかは分からない。しかし東北の人々がどのように暮らしているかよりも、どのように生きているのか、いわば今の状況を生きる力とは何であるかを探り、たとえわずかであってもそれを育んでいくことを手伝うことができれば良いと思う。 ① 叫びを聴き、それに応えること ・一人の患者の訴え 「患者の権利として、患者の立場に立ったケアという面からもパストラルケア(=スピリチュアルケア *1)を考えて欲しい。…病院は患者のためにあるのではなく、医療関係者の利便のためにある。…私は、日本の病院の現状が治療や、癒しを与える場ではなく病人を作る場になっているのでは、と医師や看護師に訴えました」という、このe-mailの発信者は、がんの大手術の体験者。 この訴えはわたしたちセンターへの注文でもある。自分の生き方を通して、医療界に心と魂の育成の大切さと有益さを伝達していくように、という課題を提起している。 ・医師の叫び -自然科学の限界 昨年10月、福島県立医科大学救命救急センターの若い医師に初めて出会ったときのことが強く印象に残った。彼は全身をふるわせて叫んだ。「これは自然科学の限界だ。どうしよう。哲学の勉強を始めました」。医師としての心、自身の全体を生かすスピリットへの願いと叫びをこのように聞いたのは初めてであった。 スピリットに生かされているスピリチュアル・ケアワーカーは、わずかであってもその存在を通して医師を援助できる。自らを生かすことのできるスピリットを、今こそわたしたちが証明するときだ。 ちなみに、昨年秋、2012年度の臨床パストラル教育研究センター全国大会の講演者としてこの医師を薦めると「来年(今年)の6月には福島のことは公(世間)ではもう忘れられている」と言われ、私はショックだった。衝撃的な震災と人災による心の傷が、わずか一年余りで消えると思うのはグリーフの深さ=心の痛みを理解していないのではないか。 -患者のアフターケア 昨年4月札幌で、肝臓移植で著名な医師、藤堂省教授に初めて出会った。彼はアメリカのピッツバーグPittsburg大学で肝臓移植の教授としてめざましい活動をし、その後北海道大学に呼ばれて肝臓移植専門教授として活躍してきた。藤堂氏は「アメリカでは肝臓のドナーとその家族およびレシーバー(移植を受ける人)へのアフターケアはチャプレンがしました。日本ではこういう制度がない。臨床心理士は週に1回勤務することになりましたが、臨床パストラル・ケアワーカーが必要です。そのためにはまず『医者のネットワーク』をつくるとよいでしょう」と力強く訴えられた。ここでも自然科学の限界が見える・・・。 自然科学のみの教育を通して医師になったほとんどの者は心と魂の存在を認めにくい、というよりもその領域を体験していないために認識しにくいと言えよう。そのためにはその領域を意識し、少しでも体験している医師を見つけ、「医者のネット」を繋げていくような呼びかけが必要であろう。まずセンター会員の医師をはじめとして、一人でも多くの医師に働きかけることが今後の課題となる。 ・生きる力への叫び -自死:周囲が気付けなかった叫び 50代の奥さんは仮設住宅から海に入水、親を震災で失った10代の男性は親の遺骨をもって海に飛び込んだ。昨年の10月から12月の三ヶ月の間に、40代の二人の男性の自死(二人とも身体的な病気はなかった)の知らせがあった。出張中の12月、東京の山手線では2回も人身事故で電車が動かなくなった。車内の電光掲示板には「人身事故」が頻繁に流れているが、何の影響も受けていないかのような乗客の様子にわたしは驚いていた。もう慣れているのだろうか。彼らの叫びに誰か気付くことがあっただろうか。 -教育「生きる根本、命の源泉を考える/教え(られ)ない」私の叫び 私は昨年10月、ある小学校で4~6年生とその保護者に講演させてもらった。この小学校は少人数でアットホームであるが、中学は近隣校から生徒が集まるため大人数になり、さまざまな問題(例:自分の意見が言えない)が起きることが予想される。そのために力になることを教えて欲しいと言われたので、「あなたが大切 Only One」をテーマにして「自分しかできない」ことを生徒に書いてもらい、それを考えてもらった。だが「命の源」について話すことは制限されていたために悩んでいた。“親に対する感謝”は取り扱えても、母子家庭や親のいない子供もいるので簡単ではなかった。(前もって尋ねると、10人の母子家庭と母親がいない生徒がいた。)「命の源」は母親でも祖母や曾祖母でもない。命自体は授けられたもの(プレゼント)であり、人間が造ったものではない。ところがこうしたことを公立小学校で教えるなら、すぐに宗教ではないかと言われる。すると子供は生きるための根本的な事柄に触れることなく、生きるベースを知ることもない。 自死の多くの原因が生命の源への理解不足から生じるものではなくても、自死へ与える影響力は重大なものである。これこそが私の叫び。 命の源、生きる力、生きる意味と目標は人生の中心課題である。われわれはそれを意識し、生き方によって周囲に証しすることが大切である。日常において最も意義のある課題だと思う。 ② 叫びに対する応答 ・ 社会全体としての課題 マスメディアは社会の価値観を反映している。例えば、年末年始の朝日新聞のトップページには次のような見出しが見られた。 「ユーロ一時100円割れ ~10年半ぶり再安価~」(2011年末)、 「原子力安全委側に8500万円 ~06~10年度24人、業界から寄付」(2012年元旦)。 このような経済に関する出来事は大切であっても、人生における心の叫び、いわば生きる源、意味や目標への援助としては限られた価値しか持たないと思われる。例えば、昨年、自死した有名人(作詞家、漫画家、会社社長、政治家、元プロ野球選手、ミュージシャンやアイドル/タレント)*2 は15人ということだが、おそらく、これらの人々にとって経済問題は中心課題ではなかったと思う。そのためには、社会が生きる源、生きる目的、生きる意味などを意識化し、教育に反映させていくことをわれわれは働きかける必要がある。 ・スピリチュアル・ケアワーカーの課題 自分の人生を希望どおりに変えることはできない。まして地震や津波などの自然災害を人間が支配できないために人間は窮地に陥る。しかし人間のこの無力さが人間社会の中心課題として取り扱われることはなかった。人間は無力であり万能ではない事実を認めて、人生を積極的に(可能な範囲内で)生きるためには、このことこそ経済問題などよりは中心的課題であると理解すべきである。 また、同じ元旦のトップページに「『リスク社会に生きる 迷いながら 去る人 残る人』つまり『放射線への不安からドイツに逃げた親子と、故郷への思いを断ち切れず福島で暮らす人々。去るも残るもリスクを抱える。人々は迷い、ぶつかり、自らの道を探す』」という記事も載っていた。これは、生きることはお金だけでは解決できないという心の叫び、自分自身を生きることへの欲求を表しているのではないだろうか。リスクを生きるかどうかは個人の選択の問題である。大自然の状況を理解するには、自然科学者の知識を聞いて個々に判断を下すほかはない。しかしそのとき、聴く耳をもち、共に考え、現実を弁えるための信頼できる同僚が欲しい。その同僚とはアドバイスをする“先生”ではなく、選択する過程で必要に応じて相手の自己決定を助けるようなスピリチュアル・ケアワーカーである。 スピリチュアル・ケアワーカー自身は、根本的な課題である生きる源、生きる意味とその目標を日常の生き方の中で常に追求する者でなくてはならない。 ・何によって生き、 ・なぜ生き、 ・何に向かって生きているのか。 これら三つの課題に対する答えを、スピリチュアル・ケアワーカーが意識的に生きる中で得ようと努力する英知や知恵は、ケアするためのベースになる。そのとき、最終的には一人ひとりは自分の能力に応じてその三つの課題への答えを体験に基づいて得るほかないが、その課題を追求するとき、同僚の存在は支えとなる。 だが、学ぶこと即ち自分で考えることは、他者への依存ではなく独学すべきものであることを忘れてはならないだろう。 -------------------------------------- 1: 筆者としての解釈 2: http://ja.wikipedia.org/wiki/ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ NPO法人臨床パストラル教育研究センターのビジョン ウァルデマール・キッペス 年頭所感で述べたような日本の現状に鑑み、当センターのビジョンを再確認したい。 1)センターのビジョン -相互に尊敬し合い、心身ともに成長すること 社会にスピリチュアルケアを提供するには、わたしたちが互いに尊敬し合うことが基本となる。そして相互のタレントを認め合い、活かすことが大切である。例えば、誰でもが患者訪問をできるとは限らない。だが、患者訪問をできる人を援助し、励まし、肯定し、活かし合うことはできる。また、訪問できる人もそれを可能にしてくれる人に対して感謝して接することによってセンターは多様性のある一つの有機体になる。当センターが社会において「生きるモデル」になることを目指したい。 -癒し主 イエス センターの中心思想である「癒し主 イエス」は他者からの厳しい体験によって心が堅くなった者ではなく、他者を受け止めてゆるす者である。イエスはアイコンタクトによって、相手に「あなたは欠点があっても価値のある人間だ」ということを理解させることができた。これは癒しである。 ちなみに何かの病気を治してもらった人が必ずしも癒されてはおらず、逆に病気やハンディーを患っていても癒された人がいることを理解すべきである。「病気を治してもらうこと」と「癒されること」とは異なっているのである。 2)このビジョンを踏まえてセンターの今後の活動 -認定者の活動と生活の保証 センターにとって以前から重要な課題になっていることは、認定者の活動の場所を確保し生活の保証が得られるように援助することである。認定者自らが得た資格を自発的に活かし活動の場を見いだすように奨めると同時に、センターとしても認定者が活きる場を獲得できるように社会に働きかけることが重要である。 この点について一つの意義ある動きとして、センターが昨年「日本スピリチュアルケア学会」の賛助会員になったことが挙げられる。 当センターを含めたいくつかのスピリチュアルケア教育研修機関(組織)がスピリチュアル・ケアワーカーの資格認定制度について話合い、学会を中心にしてある程度日本での統一基準のようなものができないかという議論が開始された。これはただ認定制度だけに関わることではなく、今まではセンターがいわば単独で社会に対していろいろ働きかけていたのだが、今後はスピリチュアルケア学会を中心にして各機関が協力することによって社会への働きけが更に強力なものになることが期待される。 -研修病院の増設 現在5つの研修病院がある。このために年間に開催できる研修会の頻度に限りがある。受け入れて下さる病院を増やすことが急を要する課題である。 この為には5日間研修会のできる病院ばかりではなく、研修生が単独で患者訪問することを許可して下さる病院をも開拓していく必要がある。 現在、いくつかの病院(鹿児島、札幌など)と交渉中である。 -医者のネット 年頭所感でも触れたように、「スピリチュアルケアに関する医者のネットワーク」作りに取り組んでいる。 現在のセンター会員である医師の方々からのこの取り組みへのご協力を期待している。 -ホームページのリニューアル 社会に対するセンターの窓口はわたしたち一人ひとりの会員である。 今後とも会員一人ひとりの社会への働きかけが重要なことに変わりはない。 しかし同時に、最近ホームページを通じての社会との関わりの重要性がきわめて増強してきたことも事実である。 ホームページをより良いものにして、社会に意義のあるわれわれの活動をさらに的確に伝えるべく、リニューアルプロジェクトに取り組んでいる。ホームページに関するご意見を歓迎するとともに、リニューアルプロジェクトにご協力下さる会員を募集している。 心と魂のケアは 私たち会員ひとり一人の 毎日の挨拶から
怒 り*1
ウァルデマール・キッペス 人生が思うとおりにならないとき、怒りが表れてくるのは自然である。例:福島の原発問題、「アラビアの春」を代表する国民の要求など。怒りはこのような不正や不愉快な状況に対する自己防衛の一つの反応と言える。そして怒りは人間である以上切り離せないfeeling(感情と情緒)の一つである。怒りにはポジティブおよびネガティブなものがある、と言うより二つの取り扱い方があると言った方がよいであろう。 ◆ 怒りはfeeling feeling そのものは ・価値判断すべきではない。feeling そのものは道徳的なものではないからである。 ・各人は自分のユニークな feeling をもつ権利がある。 ・自分のfeelingとその表現に関して責任をもつこと。 ・自分自身の feeling を正当化しないこと。feeling は身体をもつことと同様だからである。 ・苦しい、あるいは否定的な feeling を自分にとって良くないものと評価しやすい。そういう傾向にならないこと。 ・Feeling を抑制し、無視することは人格形成のために最も不健全である。 ・Feelingを表現することによって真の人間関係が生まれる。 ◆ 怒りのfeelingの表現 怒りのfeeling(他のfeelingに関しても同じことが言える)に対して、人は二つの態度をとることができる。一つは、その怒りのfeelingに責任をもって建設的に表現することである。もう一つは、その怒りのfeelingを意識的に抑制することである。怒りのfeelingは取扱いにくく、取り扱い方によって人間関係を左右し、場合によっては関係を壊してしまう恐れがある。 怒りのfeelingを建設的に取り扱うポイント: ・怒りのfeelingを意識すること。 ・自分の怒りは自分のものとして受けとめ、認めること。 ・怒りのfeelingの責任を取ること。 ・怒りのfeelingの原因を追究し明確にすること。 ・怒りのfeeling を体験するとき、その原因を他者のせいにしないこと。例:「あなたがヘりくつを言うから怒るのよ」。 ・怒りを正しく伝えること(自分が体験している怒りのfeelingとそれを表すことばが一致すること。例:ひどく傷つけられて怒っているのに、笑いながら「平気、平気」と言って怒りを軽視したり、否定したりしないこと)。 ◆ 怒りの抑制 抑制とは、意識しているfeeling、思考、観念などを意図的に意識の領域から前意識の領域へ追いやろうとする心理的行為である。したがって、一度抑制した心(理)的内容を、随意的に、再び意識化することができる。 「抑制」と「抑圧」とは異なる。「抑圧」は、無意識のうちに、認めたくないfeeling、思考等を無意識の領域へ押し込めてしまうもので、随意的に意識化することはできない。この点で抑制とは異なっている。 Feeling(思考もそうである)を抑制することはできても、無くすことはできない。抑制されたfeelingは意識化されずに放置されると、無意識的に違った形で再び現れる。この変装したfeelingは、その原因が非常に分かりにくく、そのため人格に統合することができなくなり、健全な人格形成の妨げとなる。 ![]() 怒りのfeelingを抑制する一つの思考は次のとおりである。“相手を不愉快にし、相手との関係が悪くなり、場合によっては関係が壊れてしまうかもしれない”。だが、事実は反対である。怒りを抑制すれば、その時は何事もなくても、結果的には自他との関係は逆に悪くなる。抑制された怒り(他のfeelingも同じ)は、心理(精神)や肉体を緊張させ、心身共に悪影響をおよぼす。また、抑制を長く続けると耐え忍ぶことが不可能になり、何らかの形で、その抑制された怒りが突然現れ発散することもある。(例:ほんの些細なことでも突然大声で怒鳴ってしまう。)こうした時、相手はもちろん当の本人も驚き、当惑し、その結果自分に対する怒り(例:こんなことで怒鳴ってしまうなんて、私はバカだ)が生じてくる。相手もまた、その訳のわからない怒りに驚き、怒りを発散させた相手に対する怒りが生じてくる。 このような抑制した怒りの突然の発散(または爆発)は、身体を傷つけ合うけんかになり、最悪の場合は殺人という結果になることもある。怒りのfeelingを抑制しそのまま放置しておくと、必ず自分や相手に何らかの形で害をおよぼすことになる。そのため、怒りのfeelingは抑制せずに(抑制してしまった場合には、再び意識化するよう努力する)、人格の成長のために建設的に表現し取り扱うべきである。 人格の成長と成熟は、はらわた(gut level)での feeling の多様性と深さにある。つまり愛から憎しみまでを自分のものとして認め、それがあってもよいという開かれた心を含むものである 追記 ・動物は怒りのfeelingをもつ。 ・聖書によればの神は怒りをもつ。(例:ヨハネによる福音書3章36節) ----------------------------- 1: ウァルデマール・キッペス 「ともに生きる –人間関係とコミュニケーション-」サンパウロ2003、頁 240-241, 288-290 参照 活かせる力 対 滅ぼす力 ウァルデマール・キッペス 先月(2011年9月)の16日間に、講演三回、3日間研修会一回、2日間研修会三回をさせてもらった。その後、年輩の知人の一人に電話をかけてそれを言うと「ゆっくりして、休めば良いのではないでしょうか」と言われた。わたしが「来世で休みます」と応えると、彼は「あーそういう考えもありますか」と不思議そうに驚いた様子で答えた。 被災地の仙台で開催した「無力を生きる力」の研修会(傾聴に関する仙台地区特別研修会)には仮設住宅から二人が参加した。一人は前向きで、もう一人は辛い顔の表情で頭を下げていた。わたしはその方のTシャツの背中に書かれていることばに驚いた。「Live Life to the Full(精一杯生きなさい)」。胸には「Holism(全体)」と書かれていたからである。その方はTシャツのことばに気づいていなかった。それが偶然であるかどうかは別として、研修テーマにぴったりと合い、すべてを失った本人にもインパクトを与えた。「生きること」への刺激であった。 この16日間最後の研修会が開催された札幌で、JR札幌駅構内のポスター展示会(復興の狼煙・ポスタープロジェクト・東北 展示会)に出会った。「一緒に悲しむことよりも、あなたの仕事を一生懸命やってほしい。それが沿岸を、岩手を元気にする力になるからである」。瓦礫をバックグラウンドにして人々を撮ったポスターのことばは、「埃も泥も、思い出にする」「もうふざけんじゃねえぞ」「かじりついてどこまでも」「続く未来に胸張れるよう」「心まで壊されてたまるか」「仲間が力だと、わかった」「かわりに気づいた宝もの」「あの日と闘い続けて行く」「甘くみるなよ、大槌人だ」「それでも今日も海を見る」「忘れたいけど覚えておく」「ひとつひとつ咲かせるよ」「瓦礫を、踏み台にするさ」「被災地じゃねえ正念場だ」「此処でなきゃ駄目なんだ」「余計な言葉は無くていい」「これからを、取り戻す旅」など。ちなみに、もし岩手の被災者が「よく勉強し、優秀な学校に入学し、生活を保障する会社に入社し、家柄のよい人と結婚して家庭を築き、勤勉に働くことで安心して老後を暮らせる」ような、生きる目標に向かって生きてきたなら、ポスターのことばのような生き続ける目標は持てないであろう。 生きること 活かす力について論じるに当たり、まず「生きること」を定義する。筆者にとって生きることは「自他が、自然と超自然と共に存在でき、言わば“存在そのもの”の一致(統合)へと自分に与えられている能力を、責任をもって良心的に精一杯利用することである」。筆者にとって生きることは日々の闘いを要求される成長へのチャレンジやチャンス(活かせる張り合い)でもある。この定義は全ての人に共通しているわけではないのは当然であろう。ある人にとって生きることは贈り物であり、他の人にとってそれは自分だけの所有物、又他の人にとっては重みである。 活かす力 生きることは静的ではなく能動的な要素/実存である。従って生き続けるためには力が必要とされる。筆者にとって「活かす力」とは、「自他、自然と超自然が一つの統合されている実在、存在になるようなモーターや舵である」と定義する。具体的に言うと、自分が生きる目的に向かって生きているか、それとも日々の繰り返しの中で人生の生きる意味を見出せずにいるのか、それを定期的に再確認したい。それは自分の生き方が自他を活かす、生きる希望を起こさせる、そのきっかけになっているかどうかの確認でもあろう。最も大切なのは生命(力)そのものが成長・開花することであり、破壊と滅び、言わば死を目的としないことを強調したい。 ある人物の思考や実際の生き方によって示された生きる力、および「人間を最も活かす力(活かして欲しい力?)」として現代人に影響を及ぼしている数人の考えを紹介する。 ・哲学者A・ショーペンハウアーは「生きることへの意志」 (1813年発表) を、 ・精神分析学者S・フロイトは第一次世界大戦前まで「快楽への意志」(Eros、libido)を、戦後は「死への意志」(Death instinct)を、 ・精神科医、心理学者、社会理論家であるA・アドラーはF.W.ニーチェの影響によると言われる「パワーへの意志」を、 ・精神科医、心理学者のV・ フランクルは「意味への意志」を 人間を動かすパワーだという仮説を立てた。 強制収容所での体験に基づいたフランクルの学説に説得力があるように、M・ガンジーを活かした「真理の追究」やマザーテレサを活かした「神の御心、即ち全力を尽くして人(や資源)を大切にすること」などは人間を活かす力として納得できることである。 今、日本国民を動かす力は「安心への意志」だと考えることも出来よう。日本人の特徴でもある「調和」は「安心」への手段であり、そのために自分の意見や希望を後回しにするのである。「調和」を守ることによる報いは「甘え」だと考えれば、「甘え」は調和のために尽くすことで生じる心理的緊張感やストレスのバランスをとってくれる。「調和→甘え→安心」のように。 以上の考えを参考にして日々自分を実際に活かすもの(力)は何だろう、と正直に分析してみよう。筆者にとっては内面的な動きをわきまえながら、的確な心と魂のケアができるように全力を尽くすことである。「(身体的な)健康が第一」ではなく、「目標が第一」として目標を追求することであろう。目標に向かって全力を尽くすには、エネルギー(健康)や能力、時間や所有物(所持品)を絶えず集中させる必要がある。それは内面的な闘いを伴っていることは言うまでもない。 自他を活かすための根本的な行為は自他に対して真心で相手となることである。筆者にとって毎日鏡に映る自分としばらくの間アイコンタクトを持ち続けることは、自分をありのままに受け取る手助けになっている。それは時によっては、例えば、自分が目標から離れたときなど、辛くて厳しい出会いになることは予想しやすい。自分を受容する訓練は気に障るような他者をも受け取り、認めようとする手助けになる。また患者訪問のときにも支えになる。患者をありのままで受け止めようとする努力は癒す力を持ち、患者に人間としての品位を与えるからである。だがそれは、関わる人間が患者の人格や人生観などを必ずしもよしとする意味ではないことを言い添える。(例:麻薬によるエイズ感染された人を尊重するが、その生活様式を肯定することではない。) 滅ぼす力 自分を動かす力のすべてが納得できるものでもないし、安心や平穏な社会と世界をもたらすものでもない。ポジティブなパワーもあればネガティブなパワーもある。上述したフランクルの「意味への意志」はポジティブ、フロイトの「死への意志」はネガティブなパワーになっていることも例外ではない。なぜ震災を受けたある人は「それでも今日も海を見る」と言い、ある人は「もう海は要らない」というのか。なぜある人は相手を殺し、ある人は命をかけて犠牲者を助けるのか。なぜ国民の多くは長生きしたいと願っていながら、一方で10年以上続けて毎年30,000人以上の人が自分の手で自分の寿命を絶ってしまうのか。 人間を動かす力には活かす力もあれば滅ぼす力や殺す力も少なくない。国際テロ組織のアルカイダやオウム真理教を動かし、活かしているパワーは別として、社会や自分を動かす力には、安心や平穏、調和や秩序を破壊しようとするものもあるのは明らかであり、自分の内に活動しているパワーは様々であろう。本能、衝動や欲求、成功や出世欲、勘、やる気や無気力、性質や素質など心の動きのすべては必ずしも善をもたらすものではない。挨拶しないことや他者を無視すること、妬みや嫉妬、許さないことや復讐、傲慢や虚栄心、どん欲や贅沢、依存(麻薬、ドーピング、ギャンブル)、出世と成功、金儲けや「我先に」などの動きは、容易に理想的な生き方を援助してくれるものではない。「快楽への意志」「死への意志」「パワーへの意志」の力と、それらから生じてくる破壊を熟考してみる必要がある。福島第一原発の事故は、建設可能なものであっても建設後それをコントロールできるかどうかを、建設の段階において良心的に熟考すべきという教訓を与えてくれた。アフターケアが困難であるにもかかわらず、可能でさえあれば建設するというわけにはいかないのである。 ちなみに生きる、活かす力の反対語は滅ぼす力である。と言っても、対象によって表現は異なることを言い添える。例えば、 ・人を内面的に活かす、に対して人を「だめにしてしまう」 ・人を活かす、に対して人を「殺す」 ・体験を活かす、に対して体験を「無にする」 ・食材を活かす、に対して食材を「無駄にする」 ・才能を活かす、に対して才能を「壊す」 などである。つまり何を活かすかによって使われる言葉は変わってくる。 自他を相手にしないこと、無視することや軽蔑することは自他を滅ぼすことである。筆者が遊んでいるアメリカ人の子供を眺めていたときのことである。リーダーとして振る舞っていた子供がある仲間に「You are nobody! おまえなんか、数に入ってないよ!」と、びしっと言ったことが記憶に残っている。現代社会を「無縁社会」、「孤族の国」、「自殺大国」と言い表す用語は、滅ぼす力によってネガティブに活かされた事実、現実を描いている。 最後に シベリアで捕虜にされた二人のドイツ人の兵隊。一人は戦場に行く前に奥さんに「クリスマスに戻ってくる」と約束したことによってシベリアから逃げ、イランを通ってドイツに帰った。1回目は再び捕まってひどく罰せられたが2回目に成功した。 もう一人は同僚の兵隊の偽証によってシベリアに引っ張られた。そのため自分を偽証した仲間に復讐するためにドイツに逃げるという計画を立てた。だが、偽証した人は同じシベリアで捕虜になり、死んだことが分かったため逃げる気力を失った。 目標の善し悪しには関係なく、目標があることによって行動する力が生まれる。(例:現在の「アラブの春」)
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